摂政関白の地位。
それと同時に外戚(天皇の外祖父)ポジションを目指して争う――大河ドラマ『光る君へ』の舞台で中心にいるのはご存知、藤原道長ですが、ある意味、それより興味深いのが息子たちかもしれません。
一般的には、平等院鳳凰堂の藤原頼通が跡継ぎとして知られますよね?
しかし実際は、その弟である藤原教通(のりみち)もバッチバチに兄と争っていて、なんだか共倒れするかのように終わってしまうのです。
道長にしてみれば「争うにしても、もう少し家の繁栄が続くようにしてくれよ……」と嘆きたくなる展開と申しましょうか。
今回注目したいのは、ドラマでも、なかなか強気な発言でにわかに存在感を増している、弟の藤原教通。
一体どんな人物だったのか?
1075年11月6日(承保2年9月25日)はその命日。
藤原教通の生涯を振り返ってみましょう。
異母兄弟の確執
藤原教通は長徳二年(996年)6月7日に生まれました。
母は道長の嫡妻・源倫子であり、同母姉には藤原彰子や同母兄に藤原頼通、その他多くのきょうだいがいます。
倫子の母・藤原穆子が長命だったためか、倫子・彰子・頼通・教通も当時としては驚異的な長命でした。
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その分確執も生まれましたが、それは後述するとしまして……道長にはもう一人の妻・源明子がいて、彼女との間にも多くの子女が生まれました。
そのため教通は
嫡妻腹だが次男
+
年の近い異母兄弟が大勢いる
=
幼い頃から競争にさらされる
という環境で育つことになります。
大河ドラマ『光る君へ』でも、いささか強気な描き方をされているのは、こうした状況を反映してのことでしょう。
特に一歳上の異母兄・藤原能信が気の強い暴れん坊タイプだったこともあって、教通とはぶつかる機会も多かったとされます。
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寛弘三年(1006年)12月に元服したとき、能信も元服しており、それぞれの加冠役や叙任された位階に差がつけられていました。
教通の加冠役は右大臣・藤原顕光で、正五位下に叙任。
能信の加冠役は権大納言・藤原道綱で、従五位上に叙任。
本人同士も後に政争を繰り広げることになりますが、この時点で意識しはじめたのでしょう。
道長と道綱も異母兄弟ながら、ドラマでも描かれているようにこの二人は同じ車で祭見物に出かけるなど、良好な関係でした。
道綱が(彼の母からするとおとなしすぎるくらいに)温厚なタイプだったからかもしれません。道長が息子の加冠役を頼んだのも、身分と人柄や今後の関係性を加味してのことだったのでしょう。
そのへんの空気というか、人付き合いの仕方も教通と能信が学べたら良かったのですが……。
紫式部日記にも度々登場している
この時期の重大な出来事といえば、やはり姉の彰子が一条天皇の第二皇子・敦成親王を出産したことでしょう。
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前後の様子を描いた『紫式部日記』にも、教通はたびたび登場。
例えば、寛弘五年(1008年)9月11日に彰子が出産した際には、兄・頼通や源雅通とともに魔除けの散米(うちまき)をしています。
また、出産直前で彰子の近辺がごった返している中、几帳の上から女房たちの様子を覗き見ていた人々の中にも、教通が含まれていたようです。
当時はまだ満12歳ですし、普段と違う様子が物珍しかったのでしょうかね。
同じく『紫式部日記』にて、9月16日に幼い教通らが舟遊びをしたことが書かれており、若い女房たちを誘ってともに遊んだと記されています。
女房たちも全員が誘いに乗ったわけではないのですが、舟遊びの様子を見物していた者もいたようです。この場面を書き残した紫式部もそうだったのでしょう。
教通が周囲から可愛がられていそうな雰囲気がうかがえます。
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その後、敦成親王の誕生五十日祝いや賀茂臨時祭の場面にも教通が登場していますが、あまり詳しい描写はありません。
この時点では”道長の子供の一人”という印象です。
道長から見ると”良い子”
『愚管抄』には”父の道長が教通を「ヨキ子」と思っていた”とあるので、普段はおとなしい少年だったのかもしれません。
道長の『御堂関白記』にも、長男の頼通より次男の教通について書いている日が多く、父からしても性格的に教通のほうを気に入っていたのでしょうか。
跡を継いで人目に立ちやすくなるであろう長男には、あえて厳しく接したともとれそうです。
道長からすると息子にも多く恵まれたことは喜び以外の何物でもなく、寛弘四年(1008年)11月22日に教通は、頼宗・顕信・能信らの兄弟と共に賀茂臨時祭で舞人を務めています。
道長は『御堂関白記』で「(四人も我が家から舞人を出せたのは)稀有なこと」と記述。
上機嫌っぷりがうかがえますね。
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教通は寛弘七年(1010年)に従三位へ上り、寛弘九年(1012年)4月には藤原公任の娘と結婚しました。
順調に貴族の出世コースを歩んでいると言えるでしょう。
結婚の翌々年となる寛弘十一年(1014年)には長女・生子が生まれ、夫婦仲も問題なかったと見てとれます。
実父である道長が頻繁に教通のことを書いているくらいですから、藤原実資の日記『小右記』にも名前が出てくる場面は多々あります。
しかし、教通が何かをした――というよりも、
”◯◯儀式の参列者に教通がいた”
という描写が多いので、際立って目立つ存在ではなかったように思われます。
嫡妻腹とはいえ次男なので、あまり目立たないほうが良いと考えていたのかもしれません。
あるいはよほど身の振り方が上手い乳兄弟か側近がいたか、後述のように従者が目立ちすぎるせいで主人の影が薄くなってしまったのでしょうかね。
本人の言動としては「年長者の言う事には基本的に従順」という傾向が見受けられます。
例えば『小右記』寛仁三年(1019年)6月22日の記述。
道長が教通に内大臣就任を打診したことについて、教通はこう答えています。
「実資殿が先に大臣になるべきです。私はそれと同時に大臣となり、実資殿の教えを請いたいと思います」
教通の兄・藤原頼通も実資を敬う言動を見せていますし、先例に詳しい実資との関係を良好にしておきたいという狙いが見えますね。
あるいは藤原伊周と藤原隆家の兄弟のように、”父が関白だから”という理由で奢り、孤立しないよう努めていたのかもしれません。
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教通は“貴族らしく”恋愛も嗜んでいます。
長和五年(1016年)ごろまでの間に和泉式部の娘・小式部内侍と男女の仲となって、一男一女をもうけました。
小式部内侍は彰子に仕えていたので、教通が姉のもとに出入りしているうちに親しくなったのでしょうか。
二人の間には恋人らしいちょっとした嫉妬エピソードもあり、少なくとも一時期においてはなかなか熱烈な仲だったようです。
年齢も近く、当時20代前半くらいだったので、いかにも若者の恋愛という感じがあります。
治安元年(1021年)7月には内大臣という重い立場にもなり、家を直接継げないということ以外は順風満帆でした。
従者の暴力事件
父から気に入られ、実資にも誠意を見せ、なんとなく真面目そうな人柄がうかがえる教通。
しかし彼の従者には、なぜか荒っぽい話が多々あります。
またしても時系列が前後してしまいますが、その手の話を3つほど見てみましょう。
まずは寛弘七年(1010年)2月のこと。
教通の乳母で”蔵”という通称の女房が、教通の従者たち30人ほどに鴨院西の対を襲わせるという事件が起きました。
“蔵”の前夫である大中臣輔親(おおなかとみの すけちか)が鴨院西の対に住んでいた女性のもとに通い始めたので、“蔵”が嫉妬したためだったとか。
いわゆる後妻打ち(うわなりうち)の例といいますか、最古の例とされる事件です。
『鎌倉殿の13人』でも北条政子が亀の前の住む邸を襲わせたことで知られる、あの事件の先例ですね。
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プライベートな領域の話ではありますけれども、同僚を動かしているからには教通に話を通していたはずですし、教通が止めなかったのは間違いないでしょう。
2つ目は治安元年(1021年)2月のこと。
兄の頼通が藤原実資に対し、こんな風にぼやいたとあります。
「教通が宣耀殿を宿所にしたのですが、私の宿所よりも派手にしています」
「教通に仕える者は悪人ばかりなのです。私なら従者にそんなことはさせないのに」
家の恥を晒していいの?と思いますが、それだけ実資を信頼していたのかもしれませんね。
さらに3つ目も『小右記』からで、治安二年(1022年)3月には教通と能信との間で物騒な事件が起きています。
まず、3月21日に能信が教通の厩舎人長を拉致監禁し、殴る蹴るの暴行を加えました。
この時点で既に物騒ですが、報復として教通の従者たちが3月23日に能信の従者の家を破壊したといいます。
土地を巡る諍いが原因だったらしく、詳細は不明。
また、争ったのはあくまで従者たちであり、当人同士ではありません。
命令されてという可能性は高いでしょうけれども、古い時代においては、従者の忠誠心が高すぎると、主人の心境を慮るが故に暴力沙汰になることが多々あります。
教通の従者たちも、主人の忍耐を思いやって、やらかしたことがあったのかもしれません。
この辺は想像の域を出ないので、ここまでにしておきましょう。
禔子内親王と結婚
官位の上では順調に登っていった藤原教通。
トラブルが起き始めたのは家庭のほうが先でした。
最初の妻である公任の娘が、治安四年(1024年)に亡くなったのです。
彼女は同年に末子・静覚を産んでいるので、出産時に何かしら事故があったか、産後の肥立ちが悪かったのかもしれません。
舅の公任は前年にも娘を喪っており、職を辞して出家し、山にこもるほどショックを受けました。
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その後、同じように子供に先立たれた道長や藤原斉信と交流するようになり、その流れで教通も公任を尋ねています。
そして万寿三年(1026年)2月、教通は三条天皇の皇女・禔子内親王(しし / ただこないしんのう)を妻に迎えました。
禔子内親王とは、最初、頼通との結婚が打診されていた方ですが、当の頼通が長年連れ添った隆姫女王(村上天皇の孫)の立場が低まることを恐れて病気になってしまい、取りやめになっていました。
万寿三年時点で三条天皇は既に崩御しています。
ですので三条天皇との関係改善ではなく、教通の子供たちの格を上げるための結婚だったと思われます。
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教通と禔子内親王との間には子供がいませんし、後述する教通の長女・生子が後朱雀天皇に入内する際、教通と禔子内親王が付き添っているためです。
なんだか源氏物語の夕霧と落葉の宮(朱雀院の女二の宮)を彷彿とさせる話ですね。
余談ですが、禔子内親王の同母姉が藤原道雅(伊周の長男)との悲恋で知られる当子内親王です。
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当子内親王は教通と禔子内親王の結婚よりも前、治安二年(1022年)に薨去。
そして前述の通り、教通の最初の妻である公任の娘も治安四年(1024年)に亡くなっています。
教通と禔子内親王は、双方の忌明けから十分に時間をおいて結婚したのかもしれません。
さらに話が広がってしまいますが、万寿元年(1024年)12月6日に彰子の女房になっていた花山法皇の皇女が殺され、「その黒幕が道雅だ」という噂が立っていました。
この事件がどのように解決したのかは記録が乏しいながら、教通と禔子内親王の結婚と同じ万寿三年(1026年)に道雅の官職が格下げされています。
当時、内大臣だった教通がもともと禔子内親王に好意を寄せていて、心身ともに守るために道雅をやり込めてから結婚した……なんて考えるのは少々ロマンが過ぎるでしょうかね。
やはり実母が亡くなり、母方の祖父・公任も出家してしまって後ろ盾が弱くなった子どもたちの格を上げるため、という理由が強いでしょうか。
あるいは、前述の山荘で公任と語らったことで
「義父上のためにも、忘れ形見の子らを立派に世へ送り出さなくては」
と決意し、内親王を妻にしたのかもしれません。
ちなみに公任はさまざまな人との交流が功を奏したのか、長久二年(1041年)まで健在でした。
享年75なので、当時としては結構な長生き。
政治から身を引いてストレスが減ったことが良かったのか、孫たちの先行きも明るそうなことでいくらか励まされたからかもしれません。
後宮政治に乗り出そうとするが
1020年代後半になると、摂関家に訃報が相次ぎます。
藤原教通はその合間に自らの立場を高めるため、積極的に動き始めました。
万寿二年(1025年)8月に末妹・藤原嬉子が亡くなり、万寿四年(1027年)3月に教通は娘の生子を東宮・敦良親王に入内させようとして、道長と頼通に阻止されます。
おそらく教通は娘の入内を諦めていなかったと思われますが、同年9月に同母姉で三条天皇の皇后・妍子が崩御し、それどころではなくなってしまいました。
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他にも教通の異母きょうだいが亡くなり、飲水病(糖尿病)だった道長も病状が悪化。
彰子と頼通が平癒祈願をしたものの、万寿四年12月4日(1028年1月3日)、ついに道長も薨去となり、教通を含めた男子は徒歩で棺に従いました。
法事等はほとんど彰子や頼通が主催し、教通はやはり目立たない立ち位置です。
そして喪が明けてしばらく経った長元三年(1030年)2月、教通の長男で頼通の養子になっていた信家が元服します。
この年にも教通は娘の生子を後一条天皇へ入内させようとしたものの、既に入内・立后していた同母妹・威子、母・倫子、兄・頼通と三人がかりで抵抗され、断念せざるをえなくなります。
なんだか一家総出を敵に回している感すらありますね。
そうこうしているうちに時は流れ、長元九年(1036年)4月に後一条天皇が崩御。
皇位は弟の後朱雀天皇に引き継がれました。
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すると教通は、以下の条件を鑑みて、再び生子の入内をゴリ押しします。
・生子が既に20代中盤になりつつあること
・まだ後朱雀天皇に皇子がひとりしかいない(皇后・禎子内親王の産んだ尊仁親王=のちの後三条天皇)こと
・後朱雀天皇と生子は5歳差で釣り合いが取れていること
・長暦三年(1039年)8月に頼通の養女(敦康親王の娘)で後朱雀天皇の中宮・藤原嫄子が崩御したこと
道長らをはばかって他の貴族が娘を入内させなかったこともあり、長暦三年(1039年)8月の時点で後朱雀天皇の后妃は皇后・禎子内親王しかいなかった……という背景も影響したのでしょう。
教通からすると「この状況下で、我が家に健康な娘がいるのに入内させないなどありえない」と思ったはず。
そして長暦三年(1039年)12月、頼通の反対を押し切って生子を入内させました。
このとき頼通が皇居に入る際の輦車(れんしゃ)を貸してくれず、自前で作らなければならなかったとされます。
また、頼通をはばかってほとんどの貴族が随行せず、わびしい入内となってしまったようで……。
『光る君へ』でもありましたように、三条天皇が皇太子時代から連れ添った妻・藤原娍子を無理やり皇后にしたときとほぼ同じ状況ですね。
生子の場合は、父・教通の同母兄弟である頼通が相手だけに、よりタチが悪いというか深刻というか。
娘は皇子に恵まれず
不穏なスタートながら、当の後朱雀天皇と生子の関係は悪くなかったようです。
後朱雀天皇は生子を立后させて立場を守ろうとしもしています。
しかし、これには頼通が大反対。
「摂関の娘でもないし、皇子を産んだわけでもないのに立后するのはいかがなものでしょうか」
そう言われて、結局、断念せざるを得ません。
人々は生子に同情したらしいので、周囲から見ても後朱雀天皇と生子との仲は良好だったんですね。
一方で、生子の入内と入れ替わりに皇后・禎子内親王が皇居を出て、四年ほど参内しなくなりました。
禎子内親王も道長の外孫ではあるものの、やはり現役の内大臣・教通を後ろ盾に持つ生子相手では分が悪いと感じたのでしょう。
また、同時期の12月17日に教通の子・藤原信長が、天皇の秘書といえる蔵人頭に就任しました。
彰子の承認を得てのことだったようですので、頼通も反対しきれなかったと思われます。
時は流れ、後朱雀天皇が寛徳二年(1045年)1月18日に崩御。
後朱雀天皇と藤原嬉子(道長と倫子の末子)の間に生まれた後冷泉天皇が即位しました。
これに際して新たな東宮・尊仁親王の元服の際に教通が加冠役を務めており、徐々に重い立場になっていったことがうかがえます。
永承二年(1047年)には右大臣にもなり、三女の歓子を後冷泉天皇に入内させました。
歓子は永承四年(1049年)に皇子を産みますが、その日のうちに夭折してしまい、教通が外戚になる可能性も薄れていきます。
皇子に恵まれず、頼通との確執はまだ続いていたことから、歓子もなかなか立后できず、時が流れ……。
永承三年閏1月29日(1048年3月16日)には、教通の妻・禔子内親王も薨去してしまいました。
前述の通り、教通との間に子供は生まれなかったものの、本人が二品の内親王で自分の御封(収入)もあったので、おそらく悪い立場ではなかったでしょう。
出産の危険が高かった当時、無理に子供を作って何かあったら、教通の子供たちの格上げもできなくなってしまいますし。
外戚になるため粘り続け……
立后や皇子誕生については進展せず。
一方で、藤原教通の官位はどんどん上がり、康平元年(1058年)には従一位、同三年(1060年)に左大臣まで上り詰めました。
さらに、兄・頼通の長男である通房が長久五年(1044年)に亡くなり、その異母弟である師実が長久三年(1042年)生まれでまだ若年だったことから、康平七年(1064年)、ついに教通が“藤氏長者”となります。
藤氏長者とは書いて字のごとく、摂関家を含めた藤原氏全体の長のことですね。
貴族社会で藤原氏と全く縁のない家はほぼありませんから、貴族社会の長といっても過言ではありません。
これによってようやく教通の立場が強まり、治暦四年(1068年)に歓子を後冷泉天皇の皇后に立てることができました。
頼通からは関白職も譲られます。
しかし「師実が成長したら関白を譲ること」という条件をつけられますが……後述します。
歓子の立后時には、既に後冷泉天皇が危篤状態だったため、皇太后への布石という意味が強かったと思われます。
そして後冷泉天皇が回復しないまま崩御すると、後三条天皇が即位。
後三条天皇は禎子内親王の子ですので、一応摂関家とも血が繋がっています。
しかし東宮時代に頼通から圧迫されていたこともあって、教通との関係も良好とはいい難く……。
『愚管抄』などによると、こんな逸話があります。
教通が藤原氏の氏寺・興福寺南円堂の造営を、大和の国司にやらせようとしたところ、後三条天皇が強く反対。
それに対し教通が「これではご先祖様や氏神様に申し訳が立たない」として閉口し、藤原氏に連なる公卿たちを朝議の場から退出させた。
以降、教通は、頼通や後三条天皇を相手に“寿命というチキンレース”を繰り広げることになります。
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摂関レースの勝者は?
状況は、教通にとって楽観視できるものではりません。
延久元年(1069年)には自ら左大臣を辞任し、翌延久二年(1070年)に太政大臣になっても、翌年には辞しています。
そして延久四年(1072年)、後三条天皇が病のため東宮・貞仁親王(白河天皇)に譲位。
白河天皇によって教通は関白に任じられました。
この時点では頼通も存命でしたので「以前の約束通り、ウチの師実に関白を譲ってもらおう」と言ってきます。
教通は当然のように拒否。
そりゃ一度自分の家系に関白の座がまわってきたら、息子に継がせたくなるものですよね。振り返ってみれば、道長と伊周の権力争いも同様の血縁関係からでした。
では頼通と教通の争いは?
というと、意外な結果かもしれません。
頼通が延久六年2月2日(1074年3月2日)に亡くなると、教通もまた承保二年(1075年)9月25日に80歳で薨去しているのです。
後三条天皇に対しては白星、頼通に対しては辛勝といったところでしょうか。しかし……。
★
藤原教通の死後、関白の座は師実のものとなり、教通の家系に摂関が回ってくることはなくなりました。
教通ひとりをみれば粘り勝ちかもしれません。
しかし、その後のことを考えると勝ちとは言い難いですね。
結局、後三条天皇と白河天皇以降、時代は院政期へ移行するわけで、頼通と教通は、二人して足を引っ張りあってしまったとも取れそうです。
教通の日記『二東記』は散逸部分が多いので、今後状態の良いものが見つかれば、また違った人物像が浮かび上がるかもしれません。
新たな史料の発見を待ったり、それによって新たな印象が生まれるのも歴史の醍醐味でしょう。
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国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
日本人名大辞典













