大河ドラマ『光る君へ』も終盤を迎えた第39話で一気に注目度の上がった女性がいます。
藤原道長の次女・藤原妍子(けんし/きよこ)です。
何と言ってもキャラが際だっていて、劇中でもいきなりお騒がせの連続でしたが、史実でも、姉・彰子を相手になかなか刺激的なエピソードがあって、飽きさせないのです。
なにせ妍子の夫は、道長とは相性の悪い三条天皇ですので、そうした方面からも見どころはバッチリ。
内裏にあって彼女はなかなかの存在かと思われます。
ではいったい藤原妍子とはどんな女性だったのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
誕生と幼少期
藤原妍子は正暦五年3月(994年4月)、藤原道長の次女として生まれました。
母は嫡妻の源倫子。
実は、道長の次妻といえる立場だった源明子もこの年に藤原顕信を産んでいます。同年の異母兄弟がいたんですね。
妻たちの立場の違いこそあれ、道長のマメさがうかがえます。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
妍子と顕信が生まれた翌年の長徳元年(995年)に天然痘と思われる疫病が大流行。
当時の政治中枢にいた人々もバタバタ倒れていった上に、関白の藤原道隆(道長の長兄)もこのころ糖尿病と思われる病で薨去し、その後の関白・藤原道兼(道長の次兄)も疫病に斃れる、慌ただしい情勢になりました。
こうした状況を受けて、道長は道隆の息子・藤原伊周と火花を散らしていくことになり、幼い子供たちを抱えた源倫子も源明子も内心は肝を冷やしていたでしょう。
しかし、長徳二年(996年)に【長徳の変】が起きて伊周と隆家が失脚すると、道隆一族の中関白家は大いに没落。
そのあおりを受けて出家した藤原定子は、その後、一条天皇の子を産むなどして、他の公卿たちから顰蹙を買い、長徳五年(999年)には道長の長女であり、妍子の姉でもある藤原彰子が入内するなど、目まぐるしく時代は動いていきました。
幼い妍子が世の情勢を意識することはさすがに少なかったでしょうが、両親や周囲の人々からただならぬ雰囲気は伝わっていたかもしれません。
※以下は藤原彰子の関連記事となります
-

藤原彰子は紫式部や一条天皇と共に父・道長を盤石にした功労者だった?
続きを見る
入内
それからしばらく時間が飛び、藤原妍子の結婚へ。
寛弘七年(1010年)2月、妍子は、皇太子である居貞親王(後の三条天皇)に入内することとなりました。

三条天皇/wikipediaより引用
大河ドラマ『光る君へ』では、三条天皇と藤原道長の間に不穏な空気が漂っていましたが、結局、道長は娘を嫁がせているのですね。
居貞親王と藤原妍子の二人は、父娘のような年齢差。
なんせ居貞親王の第一子である敦明親王が妍子と同い年ですから、凄まじいまでの政略の香りが漂ってきます。
興味深いのが『栄花物語』での表現でしょうか。
結婚当初、居貞親王が気まずそうにしていること、道長が手配した妍子の調度品などを「当世風で派手」と評しているシーンがあるのです。
これが『源氏物語』の女三の宮に対する光源氏の反応とよく似ています。
『栄花物語』と『源氏物語』が相互に影響したか、あるいは、この話が事実であり当時の貴族社会で広く知られていたかのどちらかでしょうか。
居貞親王も最初こそ年齢差に戸惑ったものの、妍子のもとにも通うようになります。
これは道長への建前もあり、同時に皇室の事情も影響していました。
この時代の皇統は
円融天皇(父)
│
一条天皇(子)
冷泉天皇(父)
│
花山天皇(兄)
│
居貞親王(弟、三条天皇)
という二系統あり、道長はこの後どちらの系統が続いてもいいように、
・一条天皇に藤原彰子
・居貞親王に藤原妍子
を嫁がせたのですね。
そのため妍子からも皇子が産まれることを熱望しており、利害の一致する居貞親王も理解を示して、若い妍子のもとにも通ったのです。
居貞親王には長年連れ添った藤原娍子という妻もいたのですが、このころ既にアラフォー。
彼女は四男二女に恵まれ、末っ子の師明親王(もろあきらしんのう)は、妍子の入内時点でまだ5歳でしたので、若くて立場も上である妍子と正面切って争う気にはならなかったでしょう。
この辺も「光源氏・紫の上・女三の宮」の関係を彷彿とさせますね。
紫の上に実子はいませんが、女三の宮が降嫁したあたりで、養女・明石の中宮が産んだ子供たちを世話していました。
第一子は禎子内親王
そんなわけで、夫だけでなく、もう一人の妻からも気を遣われたであろう藤原妍子。
彼女は美貌だったともいわれていますので、居貞親王も自然と惹かれていったのかもしれません。
その後、めでたく懐妊となるも、長和二年(1013年)に産まれてきたのは皇子ではなく、女子の禎子内親王(ていしないしんのう)でした。
藤原道長はガッカリしたでしょう。
もちろん当人たちには何の責任もありません。
内親王であっても一条天皇の皇子やその後の世代に嫁がせることはできますので、道長は気を取り直し、禎子内親王を外孫として厚遇しました。
実際、禎子内親王は万寿四年(1027年)、一条天皇の子である後朱雀天皇の中宮になっていて、道長からすると外孫同士が結婚したことになります。
「どう転んでも我が家の血が入った皇子を得て、朝廷に影響を与え続けたい!」
そんな強い意志がうかがえますね。
なお、先程から女三の宮と妍子の立場が似ているという話をしてきましたが、決定的な違いもあります。
あまり意思が見えてこない女三の宮に対し、妍子は派手好きだったとされ、『栄花物語』などで度々きょうだいを困らせている描写があるのです。
一種物=パーティやりすぎ 彰子に叱られる
当時の貴族社会でも、現代でいうところの”飲みニケーション”は重視されています。
長和二年(1013年)2月24日、道長が「明日は彰子の御所で一種物をやろう!」と呼びかけ、貴族たちは準備に取り掛かりました。
「一種物」というのは、参加者がそれぞれ一種類ずつ食べ物を持ち寄る形式の宴会で、わかりやすくいうと持ち寄りパーティーですね。
しかし、彰子がこれに反対します。
「妍子が毎日のように宴会をしていて、貴族たちの負担になっています。
今は父上にへつらって皆が参加していますが、お亡くなりになった後はきっと非難されるでしょう。
今度の宴会はおやめください」
そう真っ向から父に逆らったうえで、妍子の振る舞いも非難したのです。
実はこれ『小右記』に乗っている話で、著者である藤原実資は彰子の振る舞いを「賢后と申すべき」と褒め称えています。
-

実資の日記『小右記』には一体何が書かれている?『光る君へ』でも注目
続きを見る
-

道長にも物言える貴族・藤原実資『小右記』著者は史実でも異色の存在?
続きを見る
妍子がどう反応したのかまでは書かれていないのですが、果たしてどうだったのか。
ちなみにこのとき道長は粘ったらしく、藤原頼通(道長の長男で彰子の弟)が二人の間を三回も往復したとか。
この時点で頼通も正二位・権中納言兼左衛門督という高位高職だったのですけれども、父や姉の前ではただの使者扱い……ちょっとかわいそうですね。
女房たちも贅沢な重ね着?
万寿二年(1025年)1月23日、妍子は皇太后として大饗(だいきょう・この場合は后妃が臣下から拝礼を受ける正月行事の一つ)を行いました。
その場に参加した妍子の女房たちが十五枚以上の着物を重ね着し、御簾のうちから袖口を見せる出衣(いだしぎぬ)をしていたそうです。
これが贅沢だとして、関白になっていた藤原頼通の不興を買いました。
というのも、以前道長が
「彰子や威子は女房に六枚以上の衣を着せないので(倹約していて)結構。しかし妍子は(そうではないので)困ったことをする」
と言っていたことを覚えていたので、兄として示しをつけようとしたのです。
しかし後日頼通が道長に怒られてしまい、彼はまたしても面目を失っています。
確かに、現代でも底冷えがキツイことで知られる京都の真冬。
この件に関しては、ぜいたく云々というより、寒がる女房たちに対して
「厚着をしてもいいから、せめて色合いを美しく整えて見苦しくないようにね」
と命じた妍子が可能性もあります。
道長が頼通を叱ったのも「今年は格別寒いのだから、厚着をするくらいなんだというのだ」といった内容だったのかもしれません。
彰子相手に強気の返答
最後のエピソードは、贅沢とはちょっと毛色が違うかもしれません。
長和二年(1013年)4月、妍子は出産のため父・道長の本邸にあたる土御門第へ退出することになりました。
その途中で彰子の御所に立ち寄り、ここで母の倫子や妹の威子とも再会して宴会となり、姉妹間でお互いに贈り物のやり取りをしています。
彰子から妍子へは紀貫之筆の『古今和歌集』などが贈られ、妍子から彰子への返礼は、村上天皇御記(日記)を絵草紙にしたものだったといいます。
しかしこの絵草紙、宮中を出る時に藤原斉信が妍子に贈ってくれたばかりのものでした。

菊池容斎画『前賢故実』藤原斉信/wikipediaより引用
貴族社会では何かの折に贈られた絹を別の家へ贈る、ということがよくあったので、妍子はそれと同じ感覚で彰子へ絵草紙を贈ったのでしょう。
ですが彰子はそうは受け取らず、自筆で
「せっかく頂いたものを他人にあげてしまうとは何事ですか」
と注意書きしたうえで、絵草紙を妍子へ送り返したそうです。
これに妍子は気分を損ねたのでしょう。
「私から差し上げたものを返されたので、姉上から頂いたものもお返しするのが筋でしょう」
と自筆で添え書きをし、もらった和歌集を彰子に返したといいます。
筋は通っていますが、妊娠後期にこのようなやりとりとは……妍子の気の強さが見えますね。
ちなみに居貞親王は、こうした妍子のふるまいについてあまり触れていなかったようで、めぼしい記録が見つかりませんでした。
居貞親王は最初の夫人だった藤原綏子(道長の妹)が不貞を働いて宮中を出たり、その後身ごもっても責めなかったことがありますので、妍子の贅沢にもとやかく言わなかったのかもしれません。
密通に比べれば多少のぜいたくは……というところでしょうか。
これを優しさと取るか、”道長に遠慮して言いたくても言えなかった”と取るか。判断の難しいところですね。
立后
寛弘八年(1011年)に居貞親王は即位して三条天皇となりました。
すると翌寛弘九年(1012年)には妍子が中宮に立てられます。
しかし三条天皇は長年連れ添い、多くの皇子・皇女を育て上げた藤原娍子の立場も守るため、自ら一帝二后を再開し、娍子を皇后にしました。
これに対し道長はどうしたか?
というと、娍子の儀式に必要な調度品を渡さないなど、あからさまに不快さを示しましたが、ぶつけられる形になった妍子は?というと……あまり反応していません。
娍子の立場を思いやったのか。
悪い言い方をすれば眼中になかったのか。
三条天皇はその後病が続き、目を患ったため道長が強く譲位を主張。
娍子を母に持つ敦明親王を次の皇太子につけることを条件に、三条天皇は後一条天皇(彰子の子・道長の外孫)への譲位を長和五年(1016年)に了承しました。
道長からすると「譲位された後に妍子との間に子が生まれればさらに万全」と思えたでしょう。
しかし、そうはならず譲位の翌年である寛仁元年(1017年)5月、三条上皇は崩御するのでした。
妹二人が続いて死去
その年の夏、敦明親王が政治的不利から皇太子の地位を降りることを決意し、道長に申し出ました。
これによって後一条天皇の弟・敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに皇太子となり、道長は大喜び。
返礼に近い形で、”小一条院”の尊称と、妍子にとっては異母妹となる藤原寛子を敦明親王へ嫁がせました。
異母妹が義理の嫁にもなったわけです。ややこしや。
寛子は一男一女に恵まれます。
しかし、万寿二年(1025年)7月に若くして薨去。
さらに同年8月5日(1025年8月30日)には、同母妹の藤原嬉子も亡くなります。
寛子の死に関する記録は乏しいのですが、嬉子はまだ18歳かつ皇子を産んだ直後だったこともあってか、道長と倫子は深く嘆き悲しみました。
死者蘇生のまじないまでしていたとされますから、よほど現実を受け入れがたかったのでしょう。
このあたりから摂関家の栄光が陰り始めます。
娘の禎子内親王が敦良親王に入内
実家の行く末に翳りが見える一方、藤原妍子にとってはひとつの慶事がありました。
万寿四年(1027年)3月、娘の禎子内親王が敦良親王に入内し、皇太子妃となったのです。
この後しばらくして禎子内親王が産んだ皇子が後三条天皇となり、皇統が続いていくことになります。
-

なぜ後三条天皇は道長一族の権力を排除できたのか『光る君へ』その後の世界
続きを見る
妍子本人は、娘の結婚を見届けた半年ほど後、万寿四年9月14日(1027年10月16日)に薨去。
またしても娘に先立たれた道長はすっかり気落ちし、翌年に亡くなりました。
政略結婚の駒にされながらも、自己主張をしっかりしていた妍子は、当時の貴族女性としては自主的な生き方をできたのかもしれません。
現代人からすると寿命が短いようにも見えますが、当時としてはやや早いくらいですしね。
あわせて読みたい関連記事
-

三条夫人の生涯|信玄の正室は本当に高慢ちきで何もできない公家の娘だったのか
続きを見る
-

意外と好戦的な敦明親王(三条天皇の第一皇子)道長の圧迫で皇太子を譲る
続きを見る
-

彰子と一条天皇の皇子・敦成親王|後の「後一条天皇」はどんな人物だった?
続きを見る
-

彰子と一条天皇の間に生まれた後朱雀天皇|全盛期の摂関家に水を差す
続きを見る
-

藤原彰子は紫式部や一条天皇と共に父・道長を盤石にした功労者だった?
続きを見る
【参考】
服藤早苗/日本歴史学会『藤原彰子 (人物叢書)』(→amazon)
国史大辞典
日本人名大辞典
ほか








