戦国時代の合戦というと、だいたいは武将の戦略や武功、その後の土地(所領)がどちらのものになったか、といった直接的な話が多くなりますよね。
しかし、時代背景と絡めて考えてみると、政治的な動きもなかなかのウェイトになることがあります。
代表的なのはやはり、関ヶ原の戦いや大坂の陣でしょうか。
今回はもう少し規模が小さいながらに、当時の情勢がうかがえる東北の戦に注目。
天正18年(1590年)10月16日、戦国末期の東北で葛西・大崎一揆が起きました。
一揆勢が岩手沢城(岩手山城)を陥落させ、古川城を取り囲み、葛西氏・大崎氏の旧領全体へと反乱が広がっていくのです。
何やら馴染みのない地名や名前かもしれませんが、戦乱期最終盤の政治的駆け引きがうかがえる一件でもあります。
というのも、関係者が豊臣秀吉を始め、この時期のビッグネームばかりだからです。
まずは、なぜ一揆が起きたのか? コトの発端から見ていきましょう。
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北条氏滅亡後に改易の葛西家と大崎家
葛西家と大崎家は、ともに現在の宮城県北部~岩手県南部の戦国大名です。
葛西家は鎌倉時代に、大崎家は室町時代に、この地に縁付いた歴史あるお家柄。
特に大崎家は、奥州探題という重要な役職を担っており、葛西・伊達・最上などと併せて東北大名のトップとも言える存在だったのです。
しかし、戦国時代に突入すると大崎家の力が弱まり、東北も群雄割拠状態に突入します。
特に伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗(たねむね)の時代には、葛西・大崎ともに伊達家に従うようになっていました。
※以下は伊達稙宗の生涯まとめ記事となります
政宗の曾祖父・伊達稙宗がカオス!天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ
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そんなわけで、秀吉が「小田原の後北条を滅ぼすから、全国の大名はワシに味方するように。来ないとどうなるかわかってるよな^^」(超略)という命令を出したとき、葛西家も大崎家も独断で兵を出すことはできませんでした。
伊達家でも秀吉に味方すべきかどうか意見が割れ、ギリギリまで政宗が出発できなかったからです。
政宗はすったもんだの末に小田原へ出向き、詫びを入れて何とかなったものの、葛西・大崎両家は不参加のまま改易を食らうことに。
新たに木村吉清という人物が両家の領主に決まったのですが……この人選がよくありませんでした。
人手不足から統治がガタガタ
吉清は、武功や事務手続きの手際を見込まれて出世した人物であります。
実力主義で這い上がってきた方で、元々の身分は高いとはいえません。
よって、二つの大名家が持っていた領地を治めるほどの人手が、彼の家中だけでは絶対的に不足していました。
しかもナゼか秀吉は人員を補充してくれません。
自身が天下人となり色々と甘く見てしまったんでしょうかね。
そこで吉清は、現地で手当たり次第に武士へ取り立てて補おうとしました。
が、農民上がりでいきなり統治に関する仕事がうまくやれるはずもなく、葛西・大崎の旧臣たちからすれば「なんだあいつら、まともに仕事もできないのか!」と激おこ状態。
実害を受けた農民たちからすればそれ以上だったでしょう。
しばらくは浅野長政(当時は長吉)が目付役としていろいろやっていたので、問題が表面化することはなかったのですが、長政が帰った途端に紛争が起き、その半月ほど後に一揆が本格化します。
一揆の解決は氏郷と政宗が
これに対し、吉清と息子の清久は相談して解決を図ろうとしますが、一揆勢に囲まれて佐沼城から出られなくなってしまう――という最悪の事態に陥りました。
一揆勢のほうには葛西・大崎の旧臣たちがたくさんいる上、領民とも馴染みがあるので士気も統率も良く、あっという間に旧領回復同然の状態になったのです。
長政は帰京の途中で白河城に滞在しており、一揆の知らせを受けて蒲生氏郷と伊達政宗に解決を命じました。
氏郷と政宗は相談の上、11月16日から軍を動かすことに決めます。
しかし、11月15日になって事態はにわかにキナ臭くなって参ります。
「あの一揆は政宗が扇動しているんです!」と蒲生家に訴える者が現れ、単なる一揆掃討では収まらなくなったのです。
政宗さんだけに、こりゃ何かあるぞ!
と期待してしまうのは現代人のよくない見方かもしれませんが、それを裏切らないだけに政宗さんであり……。
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