こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【葛西・大崎一揆】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
犠牲を払いながら一揆勢を皆殺し
そんな秀吉も、政宗を完全に信用したわけではないのでしょう。
その後、豊臣秀次と徳川家康にも東北へ行くように命じています。
二人にとっては「東北行きとか勘弁して」って感じだったかもしれませんね。二人とも比較的温暖な地域の生まれ育ちですし。
政宗は5月に一度本拠・米沢へ戻り、6月半ばに再び出陣して一揆勢掃討を再開しました。
しかし一揆勢といっても元武士が含まれていますから、かなり手こずっています。重臣も何人か失いました。
激戦の末、7月はじめに城が落ちて、ようやく一揆勢は降伏してきましたが、政宗は許さず皆殺しにしたといわれています。
「秀次がそう命じた」とする向きもあるようですが、政宗の従弟である成実が書き残しているので、おそらく政宗の判断でしょう。
もしもまた秀吉に密告する者が出てきたら面倒でしょうし。
こうして一揆は収まりましたが、当然木村親子もタダでは済みませんでした。
父の吉清は改易となり、息子の吉清は氏郷の客将になっています。
木村家がほんの一時だけ持っていた土地(葛西家・大崎家の旧領)は、一揆鎮圧の褒美として政宗に与えられることになります。
つまり、大崎家復帰の朱印状は反故にされてしまったわけです。
大博打に出た独眼竜の勝ち?
大崎義隆のその後については、はっきりわかっていません。
「もしかしたら義隆かも」とされる人物の記録はあるのですが。
その記録では、蒲生家の客分になった後、上杉家が米沢に来てからは同家に仕えたといわれています。
路頭に迷うよりはマシですかね。もしこちらが本当のことであれば、一時期、蒲生家では「大崎家の元当主」と「大崎・葛西一揆を起こされた側」が同じ主君に仕えていた事になります。
いかにも火種になりそうな状況ですが、蒲生家は氏郷が亡くなった後に別の原因で宇都宮に移されているため、そうはならなかったようです。
鎮圧にあたった氏郷と政宗にとって、この一揆は政治的な思惑が絡むものでもありました。
中央から左遷同然にやってきた氏郷にとって、この一揆をうまく鎮圧することは必須だったワケです。
東北でいくつかの大きな役割をこなしてうまくいけば上方に戻れるかもしれない、という期待もあったかもしれません。
氏郷は会津統治も真面目にやっていますけれども、やはり上方に戻りたいと言う気持ちは強かったと思われますし。
一方、政宗にとってこの一揆は自分のシマを取り戻すチャンスでした。
上記の通り、現地の大名である葛西家・大崎家は伊達家の傘下にいたので、彼らを後押しすることは伊達家の勢力を保つことになります。
秀吉の性格を正確に把握した上での政宗のゴリ押し自己弁護は、この後に起きた秀次事件の際も猛威を振るうことになります。
そして氏郷の胃痛とストレスは極まるという(´・ω・`)
蒲生氏郷と伊達政宗それぞれの人物伝については、以下の記事も合わせてご覧いただければ幸いです。
あわせて読みたい関連記事
信長の娘を正室に迎えた蒲生氏郷~織田家の若手エリートはどんな武将?
続きを見る
伊達政宗は天下を狙っていた?派手な逸話を検証しながら70年の生涯まとめ!
続きを見る
政宗の曾祖父・伊達稙宗がカオス!天文の乱を誘発して東北エリアを戦乱へ
続きを見る
小田原征伐で秀吉相手に退かず!北条家の小田原城はどんだけ強いのか
続きを見る
「摺上原の戦い・小田原参陣」政宗の二大イベントは共に6月5日に勃発していた
続きを見る
豊臣秀吉のド派手すぎる逸話はドコまで本当か~検証しながら振り返る生涯62年
続きを見る
秀吉に逆らってでも領土にしたい! なぜ政宗は会津にそこまで執着したのか
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
佐藤憲一『伊達政宗謎解き散歩 (新人物文庫)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
大石泰史『全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)』(→amazon)
葛西大崎一揆/wikipedia
伊達政宗/wikipedia
蒲生氏郷/wikipedia