群雄割拠の状態から織田→豊臣→徳川政権へと移り変わる中で、それは非常に困難なことでしたが、この難事を成し遂げたにもかかわらず知名度や評価が低い人物は珍しくありません。
慶長十六年(1611年)4月7日に亡くなった浅野長政も、まさにその典型例でしょう。
豊臣五奉行の筆頭でもありながら、立場的には格下であるはずの石田三成よりも目立たず、フィクションなどでもあまり話題にのぼらないのは一体なぜなのか。
その生涯を振り返ってみましょう。
なお、当人は「長吉」と名乗っていた時期のほうが長いのですが、「長政」で語られるほうが多いためこちらで統一します。
4月6日説もある命日も7日として進めて参りますので、最後までお付き合い頂ければ幸いです。

浅野長政/wikipediaより引用
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生い立ち
浅野長政は天文十六年(1547年)、尾張国の春日井郡に生まれました。
織田信長のお弓衆であった浅野長勝の養子となり、その娘・ややと結婚、秀吉の正室・ねねとは義姉弟という関係になっています。
これが彼の名を後世に残す出発点となりました。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
余談ながら、長政の”長”も”政”もこの時期の人名によく使われた文字であり、同名の人物が戦国時代だけで四人もいます。
織豊政権時代にもう一人の長政がいたら、戦国鍋TVなどのパロディ番組で「ナガマサファイブ」とか「◯◯戦隊ナガマサン」とか作られていたかもしれませんね。
と冗談はさておき、こうした著名な長政に囲まれている上に、元の身分が低く、猛将タイプでもないという三拍子が揃っている浅野長政の知名度が低いのは致し方ないことかもしれません。
京都奉行を任され
互いの妻の縁から秀吉の配下に組み込まれた浅野長政。
何だかややこしいことに、天正元年(1573年)の小谷城の戦いにも参加しています。
浅井長政の本拠地であり、秀吉が大きな武功を挙げた合戦ですね。

浅井長政/wikipediaより引用
秀吉がここの主になると、長政も近隣に領地をもらいました。
統治の才能は早くから評価され、順調に加増されてゆき、出世を果たしてゆきます。
悲しいかな、戦場での目立ったエピソードがなくそれが印象の薄さに拍車をかけていると先ほど申し上げましたが、時計の針を一気に進めて【本能寺の変】後に注目しますと、杉原家次とともに京都奉行を任されるまでになりました。
2年後に家次が亡くなった際には、単独で京都奉行を任されますので、やはり実務能力は高かったのでしょう。
しかも同時期には近江の大津城ならびに坂本城の守備も任されます。
この頃には所領が2万石を超えており、大名の仲間入りを果たしていました。
若狭一国の国持大名へ大出世
浅野長政の重要な業務は他にもあり、豊臣家の兵糧や蔵米の管理を任されていました。
兵糧は軍用の食料で、蔵米は年貢として豊臣家に収められた米のことです。
現代風にいえば金庫番というのがわかりやすいでしょうかね。
こうした働きも評価され、天正十五年(1587年)には若狭一国を任されるまでになります。
天正十八年(1590年)の小田原攻略では、主将というよりも他の軍が支城を攻めているところに援軍に行く、という流れで活躍しています。
この流れで、石田三成と共に『のぼうの城』で有名な忍城の水攻めにも参加。

忍城
第一の担当者として名前が出てこないあたり、やはり地味な扱いにされてしまうんですね……。
あまり取り沙汰されることはありませんが、こういった役割は実力もさることながら、温厚な性格の人でないと中々こなせないものでしょう。
秀吉からすると、長政の人格も使い勝手が良いと判断されたのかもしれません。
むろん長政に全くミスがないわけではなく、命令違反で叱責されたこともありますが、小田原攻略に続く奥州仕置(奥州の大名に関する処置の総称)では、石田三成・大谷吉継らと共に奉行を務めています。
その流れで奥州諸大名との取次(他家との折衝役)も任されるまでになります。しかし……。
秀吉の判断力が鈍るようになると、長政の立場も怪しくなっていきました。
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