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【浅野長政】
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立場が怪しくなる
なぜ豊臣政権は滅びてしまったのか?
衰微の一因と考えられるのが【文禄・慶長の役】でしょう。
ご存知、明を従えるために朝鮮半島へ攻め込んだこの大戦、文禄元年(1592年)に始まった文禄の役で浅野長政は石田三成と増田長盛と共に渡海しています。

文禄の役『釜山鎮殉節図』/wikipediaより引用
当初の秀吉は、自身も渡海するつもり満々で、三成もそれに賛成していたとされます。
しかし長政は強く反対しました。
歴史を知っている現代人からすれば長政が正解にも見えますが、当時はそんなことはわかりませんので、三成との関係が冷え始めたキッカケになったかもしれません。
ただし、これが原因で秀吉から干されるということはなく、文禄二年(1593年)には甲斐を与えられています。
関東や奥州へ睨みを利かせるだけでなく、旧支配者たる武田家旧臣たちに対する警戒も含まれていたでしょう。
既に武田家が織田家に滅ぼされてから10年経ち、徳川家などに再仕官した者もいましたが、いつの時代もお家再興を願う人はいますからね。
長政は上方にいることが多かったため、領地の管理などは息子・浅野幸長が担当しました。

浅野幸長/wikipediaより引用
秀次事件に連座して切腹の危機
文禄四年(1595年)、豊臣政権下の浅野長政にとって最大のピンチが訪れます。
関白・豊臣秀次の失脚事件です。
このとき長政は「秀次と親しかったから」という理由で、幸長と共に連座させられる寸前まで追い詰められました。
実際は、前田利家や徳川家康の取り成しで取り消されているので、そもそも強くは疑われていなかったのでしょう。
しかし、そんな不確かな状況で、切腹させられかけたというのは実に酷い話で……。
それでも文禄五年(1596年)に起きた慶長伏見大地震の際には秀吉の元へ駆けつけたというのですから、長政の人の良さというか、忠義心というか。
残念ながら、この地震では「地震加藤」という、これまた長政よりインパクトの強いエピソードがあるため、やっぱり目立たなくなってしまっています。
謹慎中の加藤清正が真っ先に秀吉のもとへ駆けつけた、という話ですね。

加藤清正/wikipediaより引用
長政には他にも涙ぐましい話が残されています。
慶長三年(1598年)に秀吉が危篤になってからも側に侍って秀頼の貢献者の一人になったり。
その一方でまだ続いていた朝鮮の役(慶長の役)に出ていた諸大名の軍を無事帰国させるために取り計らったり。
何かと豊臣政権で重責を担わされるのです。
他の武将より秀吉との縁戚関係が濃かったから当たり前……と思いきや、秀吉が亡くなり、いざ迎えた関ヶ原の戦いでは意外な身の振り方を選択することになります。
そう、家康側についているのです。
なぜそんなチョイスとなったのか?
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