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【浅野長政の生涯】
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奉行職からの解任と蟄居
慶長四年(1599年)9月にある事件が起きました。
徳川家康が【重陽の節句】のため大坂の秀頼と淀殿を訪れた際、家康の暗殺計画が発覚し、首謀者の一人として浅野長政が疑われたのです。

徳川家康/wikipediaより引用
そのため長政は、奉行職からの解任と隠居を強制され、国元の武蔵・府中での蟄居が言い渡されました。
異心のない証として、長政は家康のお膝元である江戸へ三男・浅野長重を人質に出します。
話が前後してしまいますが、慶長四年は豊臣政権終焉へのカウントダウンが始まった年でもあり、その流れを時系列にまとめるとこうなります。
閏3月3日 前田利家の死去
↓
直後、”七将”による石田三成襲撃未遂事件
↓
三成が奉行職を解かれ、佐和山城へ実質隠居
↓
9月 家康暗殺未遂事件
↓
10月 浅野長政らに対する処分が決まる
そして翌慶長五年(1600年)、上杉景勝に対する反乱の疑いで会津征伐が始まり、関ヶ原に繋がってゆくのです。

上杉景勝/wikipediaより引用
慶長四年で豊臣政権の吏僚を引き剥がし、同五年に武力をごっそり奪ったともとれますね。
家康の脳内にこれらの青写真が描かれたのはいつだったのか、恐ろしい話です。
関ヶ原の戦い
浅野長政は、福島正則などいわゆる”武断派”のように三成憎さで敵対したというわけでもなさそうです。
ゆえに中枢の動きによっては、西軍についていてもおかしくなかったでしょう。
なんせ長政は後年「三成が生きていた頃はマシだったのに」とぼやいた……なんて逸話も伝えられていますので、三成との個人的な確執はあまりなかったと思われます。
息子の幸長については、”七将”に含まれるとする見方があるため、バリバリに対立していたと思われますが……。

石田三成/wikipediaより引用
隠居したという名目もあり、長政は会津征伐や関ヶ原に従軍はせず、江戸城に残っていました。
幸長は家康本軍に従う形で東海道を進むも、合戦当日は南宮山で毛利軍と睨み合うことになり、大きな戦闘には直面していないようです。
それでも浅野家は、幸長が東軍の先鋒を見事勤め上げた功績で和歌山37万石に移封され、大きく躍進。
長政本人は家康の側で働くことを選んでおり、息子とは別に常陸真壁に5万石を与えられています。
異心がないことを示すためでしょうかね。
そして慶長十六年(1611年)の春、穏やかにその生涯を閉じたのでした。
長政最期の地は江戸と真壁、塩原温泉など諸説あります。
湯治を許されていたんでしょうか。
ここまでなら「ふーん」で済む話なのですが、彼の子孫には超有名人がいます。
名字でお気づきの方もおられるでしょう。
長政の三男・浅野長重の子孫が忠臣蔵(元禄赤穂事件)の当事者・浅野内匠頭長矩なのです。

浅野長矩/Wikipediaより引用
もしかして、こっちが有名すぎるせいで、ご先祖の影が薄くなっちゃってるんですかね……。
いずれにせよ、なんとも不憫なことです。
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参考文献
- 菊地浩之『豊臣家臣団の系図(角川新書)』(KADOKAWA, 2019年11月9日, ISBN-13: 978-4-04-082325-6)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
Amazon: 商品ページ - 渡邊大門『黒田官兵衛・長政の野望 ― もう一つの関ヶ原(角川選書 531)』(角川学芸出版, 2013年8月24日, ISBN-13: 978-4-04-703531-7)
出版社: KADOKAWA(公式商品ページ) |
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