豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして行った小田原の北条攻め【小田原征伐】。
ぶっちゃけ、ド楽勝の合戦だった。
なんといっても、当時最強のライバル・徳川家康とタッグを組んだのだから、たとえ関東の大部分を支配する北条氏でも話にならない。
北条側の支城は次々に陥落。
そうした中で、唯一善戦したのが、映画や小説で一躍有名になった『のぼうの城』こと忍城(おしじょう)だ。
城を囲む秀吉軍は、石田三成らに率いられた二万。
一方、城を守るのは、のぼう(でくの坊)の愛称を持つ成田長親で、兵はわずか500。
「これは一瞬で落城でしょう」
と誰もが思っていたのに、なんとなんと……! という展開が小説や映画で知られる『のぼうの城』である。
では、史実は一体どうだったのか?
本稿では、天正18年(1590年)7月16日に終了した【忍城の戦い】を見ていこう。
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先走ったバカが秀吉に叱られる
忍城が、三成の水攻めを受けながら、小田原落城後も最後まで残ったのは紛れもない事実。
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この戦いの失敗で、三成は戦下手のレッテルを張られてしまった。
しかし、そこの解釈が正しくない。
三成は、あえて落とさなかったのだ。
秀吉の命令を受け、単に取り囲んでいたことが判明している。
実際、豊臣軍の中に先走ったバカがいて、成田軍の首を多数あげた武将がいた。
そして意気揚々と秀吉に「僕、やりました。がんばりました」と報告したところ、「てめえ! 攻め落とすなといっただろ!」と叱責されている文書も残っている。
こんな面倒なことまでして、秀吉は一体何がしたかったのか?
「天下統一」のためのパフォーマンス!?
最初に書いたように、秀吉にとっての小田原征伐は、家康が屈服したことで決定した「天下統一」のためのパフォーマンスに過ぎなかった。
忍城で、三成がわざわざ手間のかかる水攻めをしたのは、例のアレ。
秀吉が名将として名を上げた、伝説の戦い・高松城水攻めを再現しようとしたからだった。
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どうやら、秀吉は最後に主だった武将たちを忍城に集めて、土手の上から「わはは、ワシの力を思い知ったか」と、なんとも嫌らしいことをやろうとしたと推測できる。
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しかし、やはり城主が「のぼう」だったので、秀吉が来る前に開城してしまったと……。
なお、小説・映画『のぼうの城』が名作であることは言うまでもなく、今回の記事は史実に着目したものであることをご理解いただきたい。
以下は、小田原征伐のまとめ記事となっている。
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文・川和二十六
【参考】
国史大辞典
戦国合戦史研究会『戦国合戦大事典』(→amazon)
ほか