元慶二年(878年)の5月4日、藤原保則(やすのり)という公家の一人が出羽(秋田県)の平定に出発しました。
当時は日本どころか本州も統一されていませんでしたから、東北のほうでは度々反乱が起き、その都度中央から東北に向けて討伐軍が行っていました。
有名なのは坂上田村麻呂ですかね。
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そちらの記事でも、温厚派だった藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)という人の話をしていますが、保則もまた彼と同じように穏やかな人だったようです。
緒嗣は藤原式家、保則は南家の出なので直接血が繋がっているわけではないんですが、まあ何にせよ「汚物は消毒だー!!」みたいな人ばかりでなくて良かったですね。
武芸に秀でていたワケじゃない それでも頼られたのは
当時の東北に遣わされるくらいですから、保則も田村麻呂のように武芸に秀でていた……と思いますよね?
実は面白いことに、これがまったく違うのです。
保則は歴史に登場したときからずっと文官で、おそらく軍を率いたこともなかったと思われます。まだ「侍」っていう言葉もない時代ですしね。
それがどうしてそんな難しそうな役目を任されたのかというと、違う面での才能を認められてのことでした。
それは、秀吉も真っ青になりそうなほどの求心力です。
保則は40代の頃、飢饉で大打撃を受けた直後の備中(現・岡山県)に赴任したことがあります。
当然あっちもそっちも食べ物を探すどころか、明日をも知れないような人ばかりだったことでしょう。
気の短い人ならそれこそ「汚物は(ry」扱いをしていてもおかしくありません。
しかし、保則はそうはしませんでした。
貧しい人には税を免除し、食べ物を得るために開墾や農業を奨励して、少しずつ飢饉から国を立ち直らせていったのです。
民衆からすれば神にも仏にも見えたことでしょう。
民衆の見送りが多すぎて夜中にこっそり帰京
何かトラブルがあった際の裁きも公正なもので、保則の判決に反対する者がないほどだったとか。
あるときは泥棒が保則の人徳を聞き、己の行いを恥じて自首してきたことまであるそうです。
遠山のナントカさんでもなさそうな展開ですが、まあ西暦三ケタの時代ですから。
またあるときは、保則が任期を終えて都へ帰る途中、通れないほど見送りの人だかりができたそうです。そのため、夜中にこっそり裏道を通って帰ったといわれています。ビートルズかいな。
都に戻ったら戻ったで、今度は右衛門佐(えもんのすけ)と検非違使という仕事を兼任しました。
検非違使は義経や某ゲームで有名かと思いますが、現代でいう警察のような役職です。
右衛門佐のほうは衛門府(えもんふ)という国営の警備組織のような部署の一員を示します。
検非違使が現代の警察で、衛門府が要所要所のガードマンと考えれば何となくつかめるでしょうか。
右とか左とかは便宜上の呼び名で、「佐」(すけ)は部署のナンバー2の呼び名です。
ここでも真面目に仕事をしたため、朝廷からの信頼もうなぎのぼりでした。
東北鎮圧を命じられ、まずは米を配った
そんなわけで文武両道の活躍をした保則は、ついに大きな役目を申し付けられます。
それが東北の人々の反乱を鎮めることでした。
既に別の人が現地で対策をしていたのですが、お約束通りうまく行かず、何とかうまくやれる人材が求められていたのです。
保則は早速現地へ向かい、まずは防備のため兵の配置を整えました。
が、よくよく調べてみると、どうやら前任者の施政がよほどヘタk……厳しいものだった様子。
東北でも備中同様の飢饉が起きていたにもかかわらず、役所の人間が政治を改めようとしなかったために起きた反乱だったのでした。
「これじゃ力づくで現状を良くしてもらおうとするのもしょうがないな(´・ω・`)」
そう考えた保則は、まず役所にしまいこまれていた米を民衆に配りました。
いい意味での激変振りに、反乱を起こしていた人々も手のひらを返すどころか「すいませんでした!!」と土下座する勢いで保則へ投降してきます。
保則はこれを受け入れ、朝廷へも「かくかくしかじかでもう反乱は鎮まりましたので、別にブッコロさなくてもいいですよね? もしかしたら逃げちゃった人も戻ってくるかもしれませんし」(意訳)と報告しました。
都からも「おk」という返事が来て、めでたく乱は鎮まります。
この東北の一騒動を【元慶の乱(がんぎょうのらん)】と言います。
乱というわりには実に穏やかな幕引きでした。
都に戻った保則は順調に出世を果たす
保則はその後数年して都に帰り、実力に見合うよう官位をどんどん上げられ、最終的には公卿の一員にまで登りました。
公卿というのは、公家の中でも一定以上の地位にある人たちのことです。
今のお役所に例えるとすれば、国家公務員の中でも「○○長」という役職についている人くらいの感じでしょうか。
政治中枢で活躍した人が多いとはいえない藤原南家の中では、かなりの出世といっていいでしょう。
とはいえ、それにおごり高ぶることはなく、亡くなる直前には自ら比叡山に入り、念仏を唱えながら往生したそうです。
もしかしたら、自分の来世だけでなく、かつて赴任した備中や、乱を鎮めた東北の人々のことも念じていたかもしれませんね。
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
藤原保則/Wikipedia
元慶の乱/Wikipedia