宝永3年(1706年)3月11日は右衛門佐局(えもんのすけ)の命日です。
2023年に放映されたドラマ10『大奥』で山本耕史さんが演じられた公家ですね。
五代女将軍・徳川綱吉を導く相手とされ、わざわざ京都から呼ばれたのですが、彼の黒い烏帽子姿には大河『平清盛』の悪左府こと藤原頼長を思い出された方もいるかもしれません。
あるいは大河『鎌倉殿の13人』での三浦義村像など、いかにも腹の中に黒い魂胆がありそうですが、モデルとなった史実の右衛門佐局は、かなり立場が異なります。
まず、男女逆転型の原作とは違い、現実には女性です。
そして側室として呼ばれたわけでもなく、京都では才媛として名を知られていました。
それがなぜ江戸に呼ばれたのか?
本稿では、史実における右衛門佐局の足跡を振り返ってみたいと思います。
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仙洞御所で随一の才媛
春日局が頂点に立った時代から世を経て、迎えた徳川綱吉時代――大奥の総支配にあたったのが右衛門佐局でした。
彼女の生まれは慶安3年(1650年)。
京都の公家・水無瀬兼俊の娘(あるいは兼俊の子・氏信の娘)であり、はじめは後水尾院に仕えたとされます。
右衛門佐局は仙洞御所で随一の才媛と名高い存在であり、後水尾院が崩御すると一旦御所から身を引きましたが、そんな才女が放っておかれるわけもなく、鷹司信子が大奥に呼び寄せました。
鷹司信子は、徳川綱吉の御台所です。
なぜ彼女が右衛門佐局に声をかけたのか?
というと、信子には鷹司房子という妹がいて、霊元天皇の後宮に入っていたことから右衛門佐局と縁があり、江戸へ呼び寄せたのです。
公家の女性を求めるのは、武家ならではの理由がありました。
京都出身者のステータスシンボル
「武者の世」である鎌倉幕府が始まって以来、政治的実権はともかく、ステータスシンボルとして京都出身者を厚遇することはもはや伝統的でした。
それは江戸幕府の大奥も同様です。
一般的に、将軍の御台所というと、存在感が薄い印象があります。
特に大奥の関連作品では、将軍の生母や寵愛を受けた女性の方がヒロインとして注目されがちで、例えば綱吉なら“お伝の方”が有名でしょう。男女逆転版大奥では「伝兵衛」となります。
お伝の方は下級武士の娘から大奥に入り、綱吉の寵愛を受けた江戸時代のシンデレラと言えます。
彼女は延宝5年(1677年)に鶴姫を授かるものの、決定的に欠けているものがありました。
洗練と教養です。
むろん、大奥に入った時点で、ある程度の素養はあります。しきたりに馴染む上で、身につけたこともあるでしょう。
とはいえ十分とは言えず、せめて「娘の鶴姫は京風の洗練された女性にしたい」として教育係を求めたのです。
でも、誰を呼べばよいのか?
そんなとき頼りになるのが御台所です。
将軍の御台所は摂家出身か、世襲親王家の姫であり、京都育ちで洗練されていた彼女らは大奥でも特別な扱いを受けていました。
そこで綱吉の御台所である鷹司信子が、京都にいる妹・鷹司房子に依頼し、鶴姫の教育係として右衛門佐局を呼び寄せたのです。
それは綱吉の鶴姫に対する愛情の表れでもありましょう。
愛娘に与える最高の贈り物とも言える右衛門佐局――自身の側室ではなく、あくまで鶴姫のためでした。
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