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【右衛門佐局】
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江戸から紀州へ そして江戸へ
貞享元年(1684年)、右衛門佐局は鶴姫付きの上臈(じょうろう)に抜擢。
大奥総取締として君臨し、目を光らせることとなります。
貞享2年(1685年)に鶴姫が紀州藩主世子・徳川綱教に輿入れするときも、彼女は随行して紀州徳川家へ入りました。
夫の綱教は、綱吉亡きあとの将軍候補でもありました。
しかし鶴姫は宝永元年(1704年)に27で亡くなり、その翌年、綱教も亡くなってしまいます。
右衛門佐局は、鶴姫の輿入れから2年後の貞享4年(1687年)に大奥へ戻っており、京都と江戸をつなぐ人物として名を残しました。
そして綱教の死から1年後の宝永3年(1706年)に死去。
享年57でした。
なぜお伝ではなく右衛門佐局なのか?
右衛門佐局は才媛として知られています。
大奥入りした経緯や年齢をふまえても、将軍の側室として期待されたわけではありません。彼女はあくまで才能ゆえに大奥に入りました。
そんな右衛門佐局の生きた時代は、江戸時代でも転換点にあたります。
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しかし悪政を敷いたと言い切れるでしょうか。
彼には、武断政治から文治政治への転換をすすめた統治者としての一面もあります。
戦国時代を戦いぬき、武士の気風が色濃かった江戸時代の初期は、まだまだ物騒でした。
【生類憐れみの令】は行き過ぎた動物愛護ばかりが指摘されますが、同時に“人命の尊重”という、今では当たり前となった道徳心を浸透させたのです。
それ以前の日本人の慣習は、現代からすればおぞましく冷酷なこともありました。
例えば、穢れを嫌うあまり、死にかけた病人を家から追い出すといったことが横行していた。
こうした無慈悲な習慣をただした綱吉は改革者とも言えるでしょう。
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人生は家や子孫を残すことではない
そんな改革者・綱吉を描くうえで、大奥では誰に注目するのか?
たしかに綱吉が寵愛したシンデレラガール・お伝の方は注目を浴びやすいヒロイン像です。
低い身分からなんとしても成り上がりたい――そんな像は描きやすいですが、男女逆転版『大奥』では右衛門佐局のほうが目立ちます。
同作品での名称は右衛門佐ですので、以下はそう表記しましょう。
生きるということは何か?
右衛門佐は、子孫を残すことではないと言い切りました。
家を残すことではなく、もっと他になすべきことがある。そう強く綱吉を励ます。
右衛門佐は、子作りをする世界に嫌悪感を抱き、才能を磨くことを生き甲斐としている人物です。
そんな人だからこそ、綱吉に伝えられることがある。
大奥作品は、愛の世界が描かれます。
では、その愛とは一体何なのか?
そもそも大奥が作られたきっかけは、将軍家の子孫を確実に残すためで、それが時代がくだるにつれ、巨大化し、権威も増していった。
どれだけ華麗であろうと、その空間では「子を残すことだけが人生だ」という呪いがつきまといます。
それでいいのか?
そうではない!
そう強く言い切る男女逆転版『大奥』では、だからこそ右衛門佐という人物が注目を浴びるのでしょう。
『鎌倉殿の13人』における三浦義村の印象もあり、山本耕史さんが何か企んでいそうなイメージもあるかもしれませんが、実際はそういうことでもありません。
純粋に右衛門佐の生き方を楽しみましょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
山本博文『将軍と大奥』(→amazon)
別冊歴史読本『徳川家歴史大事典』(→amazon)
歴史群像シリーズ『大奥のすべて』(→amazon)
他