日本の皇室は、世界史上唯一、男系が保たれており、なおかつ世界一長く続いている王朝です。
俗な表現にすれば「世界一のセレブ」と言っても過言ではないわけですが、ごく稀に強烈な個性の方がお生まれになります。
この手の話でよく引き合いに出されるのは【承久の乱】を起こした後鳥羽上皇が筆頭でしょうか。
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江戸時代にも武家相手に精神的なケンカを売った天皇がいました。
寛永十年(1633年)3月12日に誕生した後光明天皇です。
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10歳で元服し、即位後21歳で亡くなる後光明天皇
この方は、紫衣事件やら徳川秀忠の娘・和子が入内したことで有名な後水尾天皇の息子です。
即位順だと後水尾天皇(父)→明正天皇(娘・姉)→後光明天皇(息子・弟)の順になります。
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諸々の事情でお姉さんの明正天皇が名ばかりの即位で長生きしたのに対し、後光明天皇は満10歳で元服・即位、それから約10年後に享年22で亡くなるという、何とも対称的な生涯を送りました。
残された逸話はどれも激しいご気性をうかがわせるものばかりです。
一番強烈なのは、京都所司代・板倉重宗とのエピソードでしょう。
後光明天皇はその性格に合ったためか、自ら武芸を学んでいました。
これに対し、重宗は「幕府にバレるとまた揉め事になりますから、お止めください。そうなったら私は腹を切らねばなりません」と脅迫を含みつつ諫言します。
後光明天皇は意に介さないどころか「武士の切腹を見たことないから、紫宸殿(京都御所の儀式場)の南でぜひやってみろ」(意訳)と言ったのです。
まさか天皇から「やれるもんならやってみろよwww」的なことを言われるとは思っていなかった重宗は閉口せざるを得ず、引き下がったといわれています。
和歌よりも漢詩が好き「鳳啼集」を作成
話はきっちり幕府にも伝わったらしく、その剛毅さを恐れたか、以後、後光明天皇の武芸について口を出すことはなかったとか。
紫衣事件やらなんやらで朝廷と幕府の間は水面下で政争状態でしたから、これ以上揉めると厄介だと思ったんでしょうね。
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そんな状況でわざとケンカを売る度胸がぱねえ。
また、武芸をお好みということで、当然のように文学というか文化的なものがお嫌いという特徴もありました。
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特に”たおやめぶり”や本朝文化(平安時代に生まれた日本独自の文化)がターゲットになり、その代表である和歌や源氏物語について「朝廷の権威が落ちたのは、こんなナヨナヨした文学のせいだ! 廃止!」(超訳)とまで言っています。
小気味いいほどの憎みようです。
とはいえ文学を理解できないというわけではなく、お父上の後水尾上皇から「即興で和歌を詠んでみよ」と言われたときにはその場で十首詠んだこともあります。
一方、漢詩はお好きで『鳳啼集(ほうていしゅう)』という御集(皇族の歌集)があるほどです。
また、儒学もお好みに合ったらしく、奨励していたとか。
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同じく儒学好きの徳川綱吉とだったらウマが合ったかもしれませんね。
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「天皇なのに和歌より漢詩なの?(´・ω・`)」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、皇室では珍しい話でもなかったりします。
どちらかというと和歌派のほうが多い気がしますが、漢詩派の方もいます。
近代で言うと、明治天皇・昭和天皇が和歌派で大正天皇が漢詩派ですね。
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