後水尾天皇

後水尾天皇/wikipediaより引用

江戸時代

後水尾天皇が春日局にブチ切れて譲位|非常に微妙だった朝廷と幕府の関係とは

2024/11/07

江戸時代の寛永六年(1629年)11月8日、後水尾天皇が譲位しました。

この方は今上陛下まで続く代々の天皇の中でも、特に政治に積極的な方。

それがどうして自ら位を下りることになったのか?

どちらかといえばメガンテ的な展開があったのでした。

 


後水尾天皇 譲位を考えるほど幕府に腹を立てる

徳川家康が幕府を作ったとき、何よりも手を焼いたのは豊臣家関連で、実は天皇家や朝廷についても同様です。

民衆の反感を招いてしまうといけないので、家康は一計を案じます。

まずはお約束の「孫の嫁入り作戦」を計画しました。

このとき選ばれたのは徳川秀忠の末娘・徳川和子(まさこ or かずこ)。

後に東福門院と呼ばれる女性です。

徳川和子/wikipediaより引用

しかし、まだ豊臣家との一件が片付いていない時期だったため、大坂の役が終わるまでは延び延びに。

この時点で、後水尾天皇が幕府に対して少しずつ不信感を抱いていったことは想像に難くありません。

しかも天皇がお気に入りの侍女に手をつけたら、幕府から「ウチの娘が輿入れするって決まってるのに、他の女に手をつけるとかありえないでしょ!!!」(超訳)とまで言われています。

まるで監視されているかのように感じ始めた後水尾天皇は、この時点で一度譲位を考えたほどでした。

並行して家康は

「政治とか俗っぽいことはこちらで引き受けますので、尊い方々は学問と文化に専念なさってくださいね^^」

というもっともらしいお願いという名の脅迫もしています。

これを明文化したのが【禁中並公家諸法度】でした。

※以下は「禁中並公家諸法度」の関連記事となります

禁中並公家諸法度
家康と秀忠の名で出された禁中並公家諸法度には何が記されてる?十七条すべてを確認だ

続きを見る

 


世襲にまでチャチャを入れられ切れ出す朝廷

一応建前としては間違っていませんし、幕府が朝廷から権力の委譲を受けているということは否定していないので、このときは公家の人々も「ぐぬぬ」とは思っても表立って反対することはしませんでした。

たぶん日記に「狸ムカつく」(※超訳イメージ)くらいのことを書いた人はいたかもしれません。

そんな中でも、学問については自由が利いたので、朝廷では天皇を始め勉学や法事に励んでいました。

それもマズくなったのが、紫衣事件と呼ばれる寛永四年(1627年)に起きた騒動です。

紫衣事件
紫衣事件で朝幕間の緊張感バリバリ|後水尾天皇の譲位に家光はどう対処?

続きを見る

”紫衣”とは、仏教で一番エライと認められたお坊さんに対して与えられるもの。

聖徳太子が冠位十二階での一番高い身分にも与えたように、紫そのものが高貴な色として扱われていました。

が、そのイメージとは裏腹に、本当に徳のある人かどうかではなく、お寺の格や年齢など、俗っぽいことで紫衣が与えられるようになってしまっていたのです。

しかも、いつの間にか一度に十人以上も「紫衣おk」の許可を出すようになったり、徐々に価値は薄れていました。

徳川家光が将軍職に就いていた江戸幕府は、これに対し、禁中並公家諸法度の中で「それちょっとユル過ぎでしょ。ちゃんと人物を吟味してから紫衣をあげるようにしてくださいよ!」と定めます。

あれ? なんか幕府の方が真っ当?

徳川家光/Wikipediaより引用

しかし、朝廷からすれば、ポっと出の新政権に、先祖代々の慣習を否定されたようなものですから当然気に入りません。

それは後水尾天皇とて同じことでした。

幕府は「決まりは決まりだって言ってんだろ!」とこの年に紫衣を受けた僧から、強引に紫衣を取り上げてまわります。

あまつさえ、彼らを流罪にさえしました。

配流先が離島ではなく、陸続きの出羽(だいたい山形県)や陸奥(だいたい宮城県)辺りというのがどうにも計画的でいやらしい。都合に応じていつでも赦免できますからね。

 

春日局になめられ、とうとう怒りの譲位!

実際に、彼らのほとんどは後に大赦されていて、紫衣も戻されています。

この事件の後、さらに後水尾天皇を怒らせたのが春日局でした。

徳川家光の乳母のあの人です。

春日局/wikipediaより引用

彼女は教育係だけでなくいろいろな仕事をしていましたが、寛永六年に元々病弱だった家光が寝込んだとき、伊勢神宮まで平癒祈願へ行ったことがあります。

そのついでに宮中のご機嫌伺いのため、御所へ上がろうとしたのです。

が、そもそも彼女の身分的にそんなことができるはずはありません。

それなのに、わざわざ直前に遠い祖先の血を辿り、当時の主と義理の兄弟として縁を結んで体裁を整えるという、あからさまにその場しのぎの対応をして参内しました。

この世で最も尊いとされていた天皇への拝謁を、武家の人間が後から取ってつけた身分でやろうとし実行したことで、後水尾天皇の怒りは頂点に達します。

そして幕府に何の連絡もせず、寛永六年(1629年)11月8日、当時まだ5歳だった娘・明正天皇に譲位してしまったのでした。

在位1629~1643年の明正天皇/wikipediaより引用

 


上皇としてその後も宮廷には関わっていた

後水尾天皇も「私の意見を蔑ろにするなら、いつ譲位しても構わないよな?^^」と思ったのかもしれません。

ここまでがコレじゃあ、そう言いたくもなりますわな。

とはいえ全てを放り投げたわけではなく、上皇としてその後も宮廷には関わっていたのですが。

ついでに……幕府との対立も終わらず、後々まで尾を引いていくことになります。

刃傷沙汰など物騒なことにならなかったのは、妻の和子(まさこ)が間に入ってうまく取り持っていたということが大きいようです。

嫁姑のバトルはよく聞きますが、舅(幕府)と夫の争いなんてさぞ気苦労が多かったでしょうね。

あれ? 一番可哀相なのって和子では?


あわせて読みたい関連記事

徳川家光
徳川家光の生涯|家康と秀忠から幕府を引き継ぎ江戸の基盤を固める

続きを見る

後光明天皇
後光明天皇の豪快痛快エピソード|江戸幕府を相手に一歩も引かず!

続きを見る

霊元天皇
霊元天皇は江戸幕府にも退かぬ!媚びぬ!省みぬ!子供は実に35人もいた!?

続きを見る

光格天皇
光格天皇は知られざる名帝か|幕府にも引かない尊号一件と御所千度参り

続きを見る

【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon
後水尾天皇/wikipedia

TOPページへ


 



リンクフリー 本サイトはリンク報告不要で大歓迎です。
記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。
引用・転載をご希望の際は お問い合わせ よりご一報ください。
  • この記事を書いた人
  • 最新記事

長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

-江戸時代
-

右クリックのご使用はできません
目次