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【後水尾天皇】
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春日局になめられ、とうとう怒りの譲位!
実際に、彼らのほとんどは後に大赦されていて、紫衣も戻されています。
徳川家光の乳母のあの人です。
彼女は教育係だけでなくいろいろな仕事をしていましたが、寛永六年に元々病弱だった家光が寝込んだとき、伊勢神宮まで平癒祈願へ行ったことがあります。
そのついでに宮中のご機嫌伺いのため、御所へ上がろうとしたのです。
が、そもそも彼女の身分的にそんなことができるはずはありません。
それなのに、わざわざ直前に遠い祖先の血を辿り、当時の主と義理の兄弟として縁を結んで体裁を整えるという、あからさまにその場しのぎの対応をして参内しました。
この世で最も尊いとされていた天皇への拝謁を、武家の人間が後から取ってつけた身分でやろうとし実行したことで、後水尾天皇の怒りは頂点に達します。
そして幕府に何の連絡もせず、寛永六年(1629年)11月8日、当時まだ5歳だった娘・明正天皇に譲位してしまったのでした。
上皇としてその後も宮廷には関わっていた
後水尾天皇も「私の意見を蔑ろにするなら、いつ譲位しても構わないよな?^^」と思ったのかもしれません。
ここまでがコレじゃあ、そう言いたくもなりますわな。
とはいえ全てを放り投げたわけではなく、上皇としてその後も宮廷には関わっていたのですが。
ついでに……幕府との対立も終わらず、後々まで尾を引いていくことになります。
刃傷沙汰など物騒なことにならなかったのは、妻の和子(まさこ)が間に入ってうまく取り持っていたということが大きいようです。
嫁姑のバトルはよく聞きますが、舅(幕府)と夫の争いなんてさぞ気苦労が多かったでしょうね。
あれ? 一番可哀相なのって和子では?
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史読本編集部『歴代天皇125代総覧 (新人物文庫)』(→amazon)
後水尾天皇/wikipedia