2015年(平成27年)4月24日は近江の石山寺が日本遺産(文化庁)に認定された日です。
正確には「琵琶湖とその水辺景観―祈りと暮らしの水遺産」の一つとして認められたわけですが、この石山寺、大河ドラマ『光る君へ』でも非常に重要な場所となったのを覚えていらっしゃるでしょうか?
第15回放送では主人公のまひろがさわと共に参拝し、第27回放送では藤原道長と遭遇、そのまま一夜を過ごす。
しかも、その際に懐妊した子を後に産むわけで……あまりにも急な展開だったため、こんな風に思いませんでしたか?
「石山寺でどんな場所なの? まひろと道長が遭遇することなんてあり得る?」
実は、第15回放送の段階で、まひろと藤原道綱母が出会っていたように、彼女の日記『蜻蛉日記』の中でも石山寺や寺社参拝のことは度々触れられています。
当時の貴族にとって寺社はさほどに身近な存在であり、他ならぬ藤原道長も石山寺に娘の懐妊を祈願させていました。
では一体、どんな風に神仏を頼り、参拝をしていたのか。
藤原道長と彰子の石山寺をはじめ、赤染衛門や道綱母の例を挙げて、振り返ってみましょう。
藤原道長・彰子の場合
藤原道長が長女の藤原彰子を一条天皇に入内させたとき、彼女はまだ満11歳でした。
いくら結婚が早い時代とはいえ、この時点で妊娠・出産できるほどの心身ではありません。
さすがの道長も当初は急ぎませんでしたが、彰子は思春期に入ってからもなかなか懐妊しませんでした。
当時の価値観では出産適齢期のはじまりくらいの感覚ですね。
また、懐妊したとしても”胎児が健康に育って出産までいけるかどうか”も大きな賭けという時代です。
そこで道長は、彰子が入内して数年後に
「昼夜を問わず観音に祈願せよ!」
と、石山寺の僧侶に命じています。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
詳細は明らかにされていませんが、彰子の懐妊はもちろん、同時に次女・妍子の入内も祈願したものと思われます。
さらに道長は、金峯山寺(奈良県)に参詣した際にも、子守三所権現(現・吉野水分神社)に対して特に多く奉納しており、願いの強さがうかがえます。
ですので、石山寺へ出向いてまひろと偶然再会するシチュエーションは、確率こそ低いものの、状況的に絶対不可能というものではないんですね。
彰子本人も「不断経」という仏事を行っていました。数日間、絶やさずにお経を読み続けるもので、子授け祈願だったと思われます。
道長・彰子の父娘が必死になるのも無理はないでしょう。
なんせ彼らの眼の前には、藤原道隆と定子の父娘が皇子に恵まれながら長じるまで見守れずに亡くなった前例がありました。
できるだけ早く皇子を産んでもらわないと、外戚として権力を振るうことはできない。ゆえに強く祈願するのも自然なことでしょう。
結果として彰子は二人の皇子に恵まれ、妍子の入内も実現したのですから、道長もホクホクだったはず。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
一方で、道長はその晩年で妍子や嬉子に先立たれており、神仏が彼を依怙贔屓していたわけでもないようです。
この辺は運命の悪戯というか、よくできているというか……「事実は小説より奇なり」という言葉を思い出してしまいます。
赤染衛門の場合
紫式部の先輩といえる女房の赤染衛門。
彼女は元々、彰子の母・源倫子の女房であったのは、『光る君へ』でもよく知られたところですね。
赤染衛門は、夫の大江匡衡(おおえのまさひら)との仲も良好で子供にも恵まれ、この時代の女性としてはかなりの成功者と言えるでしょう。

大江匡衡/wikipediaより引用
その子供の一人・挙周(たかちか)が和泉守に任じられると、任地で重い病にかかってしまいました。
そこで赤染衛門は住吉大社に以下の歌を献じ、我が子の回復を祈った……という話があります。
代はらんと 祈る命は 惜しからで さても別れん ことぞかなしき
【意訳】息子の身代わりになろうと思えばこの命は惜しくありませんが、息子と死に別れることは悲しいのです
すると挙周の病が治り、赤染衛門が身代わりになることもなく穏便に済んだ――というものですね。
話がうまく行き過ぎていて嘘くさいですが(すみません)、詞花和歌集の詞書として書かれていますので、全くの創作というわけではなさそうです。
住吉大社の祭神は、神功皇后に「新羅を征伐せよ、我らを祀れば平伏するだろう」との神託を下した住吉三神であり、神功皇后も祀られています。
神功皇后は三韓征伐の際、後の応神天皇を身ごもったまま渡海したとも言われていますので、母の真心が通じたものでしょうか。
藤原道綱母の場合
平安時代の貴族女性といえば、一定以上の身分になるとほぼ外出しないのが常……かと思いきや、あながちそうとも限りません。
参詣のため色々と出かけているのが、前述の通り『蜻蛉日記』の著者・藤原道綱母です。

浮世絵にも描かれた『蜻蛉日記』岳亭春信:画/wikipediaより引用
彼女は「いつも行っている」と記している”鳴滝の山寺”の他、伏見稲荷大社や初瀬の観音様こと長谷寺など、多くの寺社へ参詣していました。
出先が記されておらず「人に誘われてお参りに行った」というだけの記述も多々あり、他のお寺や神社にもよく行っていたようです。
比較的若い頃、夫の藤原兼家と大ゲンカをした後に「幾年来の願い事があって」と初瀬のことを記しているため、夫婦円満や子授けを願っていたと思われます。
「あちらこちらへお参りしてお祈りしたが、もう子供が生まれる見込みのない歳になってしまった」なんて記述もあります。
なお、この初瀬詣のときは、兼家が「大嘗会が終わったら一緒に行こう」と誘っていたのにもかかわらず、道綱母はそれを待たず、一人で行ってしまっています。そういうとこですね。
参詣への道中や寺社の様子も
藤原道綱母が他の女性たちと異なるのは、やはり日記を記していたことが大きいでしょう。
その中で、参詣への道中や寺社の様子も比較的多く記していて、現代の我々も楽しむことができます。
実際にどんなことが書かれていたのか?
いくつか例を挙げてみましょう。
◆初瀬へ向かう道中の宇治で
「木々の間に水面がきらきらと光ってうっとりするような景色」
「川に向かって簾を巻き上げると、川の中に網が張ってある。行き違う舟も多く、今まで見たこともない風景をみんなで眺めた」
「後ろを見ると、従者たちが柚子や梨を嬉しそうに食べていて、旅の面白さを感じた」
◆唐崎へ祓えに行く途中
「山道になると、京都はすっかり違った景色で面白かった」
「関所の道も趣深く、なんとなく先を目で追っていくと、はるか彼方まで見渡せた」
こういった表現は、話の流れや人物同士の心境を重んじる物語より、著者の感覚がそのままにじみ出る日記文学のほうが面白いかもしれませんね。
家族に関するご利益はなかったかもしれませんが、この筆力と和歌の才能をもって、道綱母の名が現代にまで伝わったことは何ともありがたいことです。
「神頼み」は現代ではあまり重視されなくなっていますが、そうするしかないときもありますよね。
科学的な解決方法がない時代は、必然的にその機会が増えるだけのこと。
頭から「非科学的」と謗るのではなく、当時の人の心情を想像して史料や文学に触れてみると、より味わいが増すのではないでしょうか。
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【参考】
服藤早苗『藤原彰子(人物叢書)』(→amazon)
他





