藤原伊周

藤原伊周/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安

史実の藤原伊周は長徳の変で左遷され その後どのような生涯を過ごしたのか

2025/01/27

寛弘7年(1010年)1月28日は藤原伊周の命日です。

伊周といえば、道長を呪うための木札を喰ってしまう――大河ドラマ『光る君へ』でのそんな姿があまりにインパクトがあり、未だに忘れられない方もいらっしゃるでしょう。

ドラマに登場したばかりの頃は、和歌も、漢詩も、笛も、弓も、貴族に必要なことは全部でき、加えて妹の藤原定子は一条天皇に寵愛される、眉目秀麗の貴公子でした。

それが関白になれなかったことから一変。

メンタルの弱さを露呈し、挙句の果てには弟の藤原隆家と共に【長徳の変】という大事件を起こしてしまう。

捕縛される前に、慌てふためき右往左往する姿は、なんとも情けないものでしたが、あれはドラマだからこその大袈裟な表現だったのか?

事件の後は、どう過ごして、いかなる最期を迎えたのか?

本記事では、藤原伊周の生涯を史実面から振り返ってみましょう。

藤原伊周/wikipediaより引用

 


父は藤原道隆 母は高階貴子

藤原伊周が生まれたのは、天延二年(974年)。

父は藤原北家の藤原道隆で、『光る君へ』では井浦新さんが演じていましたね。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用

さらには道隆の父(伊周にとっては祖父)・藤原兼家は東宮大夫などを務め、さらにその父(伊周の曽祖父)である藤原師輔は藤原北家九条流を興隆させた人物です。

道隆は容姿にも優れていたようで、いわゆる”貴公子”のイメージでしょう。酒癖の悪いところもあり、それが後々災いとなるのですが……。

母は高階成忠の娘・高階貴子でした。

後に女房三十六歌仙にも数えられる歌人で、円融天皇の頃には宮仕えをしており、「高内侍(こうのないし)」と呼ばれていました。

高階氏はもともと天武天皇の孫・長屋王から枝分かれした一族。

貴子の父・高階成忠は政治家というより学者で、一条天皇の東宮時代の先生を務めていました。

つまり伊周は、

・父方では出世間違いなしの家柄かつ美男子

・母方は学才に優れた一族

といった抜群の環境に生まれたと言える。

しかも貴子は道隆の嫡妻でしたから、どこからどうみても将来を約束されていました。

それが証拠に寛和元年(985年)12歳で元服すると、さっそく従五位下の位を受け、翌寛和二年(986年)には一条天皇の即位式の日に昇殿を許され、その後も毎年昇進していきました。

祖父の兼家が、同じく寛和二年に摂政・従一位・准三宮という栄華を極めていたため、その恩恵を受けたのでしょう。

もちろん、伊周の父であり兼家の子である道隆もガンガン出世しており、永延三年(989年)には内大臣という高官になっていました。

 


父と妹に引っ張られて内大臣まで出世

正暦元年(990年)、父の藤原道隆が兼家の跡を継いで関白になると、同年10月には藤原伊周の同母妹・藤原定子が中宮になりました。

これによって伊周はさらに出世を果たします。

正暦二年(991年)参議、従三位権中納言

正暦三年(992年)正三位権大納言

正暦五年(994年)内大臣

急速に高い官位へ上り、伊周は21歳という若さで内大臣となるのですが、さすがにこれはやり過ぎでした。

叔父の藤原道長を追い越すばかりでなく、自分が出世するときに異母兄(庶子)の藤原道頼へ官職を譲ったり、いかにも反感を買いそうなことを繰り返していたのです。

一条天皇の母である藤原詮子(東三条院・道隆の妹)にもよく思われず、後に道長が有利になる下地が作られていきました。

藤原詮子/wikipediaより引用

そして伊周にピンチが訪れます。

長徳元年(995年)2月初め、父の藤原道隆が飲水病(糖尿病)を悪化させ、明日をも知れぬ状態となってしまうのです。

慌てた道隆は「伊周に関白の座を譲らせてほしい」と一条天皇に願い出たところ、許可がおりません。

一条天皇と藤原伊周は、単なる主従という他にも複数の面がありました。

藤原定子を通して義兄弟の関係だっただけでなく、伊周が一条天皇に漢籍を進講するなど、公私共に様々な面で関わっていたのです。

となると伊周の悪い面も頻繁に目にするわけで……。

そこで一条天皇は「道隆が先に書類を見て、その後、伊周も見るように」という命令を下しました。

おそらく父の跡をすぐに継げると思っていたであろう伊周はこれに不服そうな態度を隠しません。

母方の叔父で左少弁の高階信順も「宣旨を訂正せよ」と、文書を作成した大外記・中原致時に迫ったといいます

当然ながら、天皇の意思を勝手に書き換えることは出来ないため、致時は拒絶――と、こうした流れも一条天皇の耳に入り、ますます伊周は不興を買ってしまうのです。

しかも緊急事態の中、伊周は衣類の裾の長さなどに制限を加えるというよくわからん方向の厳しさを発揮し、公卿たちからさらに反感を買いました。

なぜ自制することが出来なかったのか……。

 

詮子が選んだのは道長

病みついてからおよそ2ヶ月後の4月10日、藤原道隆が亡くなりました。

次に関白となったのは藤原道隆の弟で伊周の叔父である藤原道兼です。

『光る君へ』を見ていると、道兼は何ら報われることなく終わってしまいそうでしたが、実際は兄の死去により望んでいたポジションは得られたんですね……と思いきや、さらに急転直下の展開となります。

道兼が在職数日で亡くなってしまうのです。

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あまりにもその期間が短かったため、道兼は【七日関白】というありがたくない呼称も付けられています。

問題はその次のリーダーです。

藤原伊周が自信満々に色めき立ちそうな場面で、藤原詮子(東三条院)に指名されたのは藤原道長でした。

詮子は「道長を内覧に」と一条天皇に勧め、天皇もこれを許可。

道長はようやく伊周の官位を追い抜き、右大臣や藤氏長者(藤原氏全体の当主)なども認められます。

一条天皇としても、実務能力に疑問符がつき、評判の悪い伊周より、それなりに歳を重ねて充実していた道長のほうが重職にふさわしいと考えたのでしょう。

一条天皇/wikipediaより引用

しかし、伊周は「なんでアイツなんだよ!」とばかりに、道長への対抗姿勢を表します。

実際、そんな緊張状態に触発されたのか、伊周の弟である藤原隆家の従者が、藤原道長の従者と事件を起こしたり、

「伊周の祖父・高階成忠が道長に呪詛をかけている」

という噂が流れたり、徐々に世間まで敵に回し始めてしまいました。

伊周と道長の当人同士が激しく口論することもあり、他の人々が恐れをなすこともあったとか。

そんな場面で仲裁できるのは、誰が相手でもひるむことの無かった藤原実資ぐらいかもしれませんね。

 


長徳の変

眉目秀麗で衣装のセンスもよい藤原伊周は、定子に仕える女房たちにも人気があったようです。

『枕草子』で絶賛されている場面があったり、清少納言が出仕したばかりの頃に伊周に絡まれた話が書かれています。

しかし、女性に関連して自ら重大すぎる事件を起こしてしまいます。

現在では【長徳の変】と呼ばれているもの。

長徳二年(996年)1月16日、伊周と弟の隆家が誤って花山法皇に矢を射かけさせてしまったのです。

花山天皇/wikipediaより引用

花山法皇に怪我はなかったものの、矢は袖に当たっていたそうですから、まさに間一髪といったところ。

しかし、花山法皇の従者と伊周らの従者との間で乱闘になり、花山法皇方の家来が二人殺害されたばかりか、伊周方がその首を持ち去ってしまったというのですから、鎌倉武士もビックリの展開。

なぜ、そんな乱暴を働いたのか?というと、女性関係について誤解があったためです。

当時、伊周は太政大臣・藤原為光(故人)の三女のもとへ通っていました。

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一方で花山法皇は、為光の四女のもとへ。

三女も四女も為光邸に住んでいたため、その近隣で男性の人影を見た伊周が

「俺の目当ての三女に他の男が通っている!憎き恋敵!!」

と頭に血を登らせ、よく確かめもせず従者に命じて襲撃させてしまったのです。

当時、貴族の間でこういった乱暴な事件は珍しくなく、共に襲撃に加わった弟の藤原隆家も【天下のさがな者(暴れん坊)】として知られる戦闘タイプの貴族。

花山法皇は出家後ということもあり、みっともない事件だけに沈黙していたのですが、死者が二人も出ていて問題にならないわけがありません。

伊周にとっては最も知られたくない道長の耳にも入ってしまうのです。

ちなみに、花山法皇がかつて寵愛していた藤原忯子も為光の娘であり、亡き寵妃の面影を求めて四女のもとに通っていたのかもしれません。

伊周も、もう少し丁寧に確認さえしていれば、こんな事件にならなかったものを……と後悔先に立たず。

話を聞いた道長はすぐに動きました。

 

伊周が播磨へ 隆家は但馬へ配流

事件が発覚すると、一条天皇が藤原実資に命じて、藤原伊周やその家臣たちの屋敷を調べさせました。

伊周には東三条院(藤原詮子)に対する呪詛の疑いもあり、罪状に加算。

その結果、同年4月に伊周と隆家の兄弟に配流が命じられ、彼らの異母兄弟や母の実家にあたる高階家なども処罰を受けてしまいます。

何より辛かったのは妹の藤原定子でしょう。

枕草子絵詞/wikipediaより引用

彼女はこのとき懐妊していて、二条北宮にいました。

そのため、伊周や隆家が出発までここに隠れているのではないかと疑われて捜索を受けるのです。

身重の定子にそんな負担をかけるわけない……と思われるかもしれませんが、隆家はそこに潜んでいました。

しかし伊周は見つかりません。

数日後に姿を見せたとき、僧形だったとかで、父の墓参りをしていたとも。

なんとも往生際が悪いですが、ドラマで三浦翔平さんがどう演じられるか、楽しみな場面でもありますね。

いずれにせよ罪に問われた彼らは、長徳二年(996年)5月15日に、伊周が播磨へ、隆家は但馬へ配流されることが正式に決まりました。

不幸の極みはその当日に起きます。

兄と弟が引き立てられていく様を目撃した定子は、その場で自ら手にはさみを取って髪を下ろし、身重の体で尼姿になってしまうのです。

さらには伊周の母・高階貴子が出発しようとする伊周の車にすがりつき、同行を嘆願します。

もちろんそんなことは許されず、彼女はそのショックで病気に。

後日、誰かが貴子の病気を伊周へ知らせ、母が心配になってしまった彼は、同年10月、こっそり京都へ戻り、定子の御所へ身を隠しています。

しかし当然ながら見つかり、改めて太宰府へ送られます。

これでは「反省していません」と言っているようなもので、藤原実資が「当然の報いである」と記しているほど。

もっと見つかりにくそうなところに隠れるとか、まめに母と手紙をやり取りしてせめてもの慰めにするとか、もう少しお咎めを受けなさそうな方法を思いつけなかったのでしょうかね。

道隆の一族は「中関白家(なかのかんぱくけ)」と呼ばれますが、彼らはどうにも直情的なところがあるようです。

 

定子が亡くなってしまい

配流後の藤原伊周は、しばらく大人しくしていました。

そのおかげか、比較的早くチャンスが訪れ、長徳三年(997年)4月、東三条院の病気平癒祈願のため、大赦が決まりました。

伊周・隆家もその対象となり、京都に戻れることになったのです。

「大赦」というのは、罪人を許して徳を積むことにより、神仏に貴人の病気を治してもらおうというものです。

お祝いごとのときにも行われましたが、病気平癒祈願のケースのほうがよく話題になる気がしますね。

同じく平安時代の大赦として有名なのは、上東門院(藤原道長の娘・藤原彰子)の病気平癒祈願のため、前九年の役で朝廷に背いた安倍氏が赦されたことでしょうか。

中関白家にとって不幸中の幸いだったのは、藤原定子が変わらず一条天皇に寵愛されていたことでしょう。

二人の間には長徳の変と同年に内親王が、長保元年(999年)には一条天皇の第一皇子・敦康親王が生まれます。

まだまだ希望は……と思いきや、そこへ暗雲が立ち込めます。

敦康親王の生誕と同日に、入内したばかりの藤原彰子が女御になったのです。

女御とは、数多いる後宮の女性の中でも、特に身分が高く皇后候補となりうる人に与えられる位。

長保二年(1000年)には、道長の意向で彰子が中宮となり、元々中宮だった定子は皇后となります。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用

名目上は定子が尊ばれているものの、明らかに端へ追いやられている。

そして定子は同年末にもう一人の内親王を産むと、産後の経過が悪く、そのまま亡くなってしまうのです。

このとき伊周は、臣下として産室のすぐ側に控えていたのですが、亡くなった直後の定子を抱いて慟哭していたといわれています。

定子の葬儀の日には、大雪の中、徒歩で棺に従い、この歌を詠んだとされます。

誰もみな 消えのこるべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき

【意訳】人はみないつかは死んでしまうものだけれど、この雪の中で君が逝ってしまったことが悲しい

貴公子なのに残念な場面が多い。

しかし、親族への愛情は本物なんですよね。

この歌は『続古今和歌集』にも採られており、後世の人々も伊周の悲嘆に胸を打たれたものと思われます。

 

定子から生まれた敦康親王が頼みの綱

さすがに哀れんだのか、これ以上恨みを買わないためか。

同じく長保二年に藤原道長から一条天皇へ、藤原伊周の復位が奏上されています。

しかし、一条天皇はこれを拒否。

一条天皇/wikipediaより引用

天皇にしても、愛妃を亡くして気落ちしていたでしょうし、もしかするとこんな気持もあったかもしれない。

「定子がこんなにも早く亡くなったのは、伊周の行いが悪いせいだ!」

しかし翌長保三年(1001年)の末、まだ回復していなかった東三条院からも

「伊周を元の位に戻すように」

と促され、一条天皇は承諾します。

かくして伊周は復帰すると、寛弘元年(1004年)秋には、道長が伊周の詩に唱和したり、両者の関係は改善したかに見えました。

これには理由があります。

この時点で一条天皇の皇子は、定子から生まれた敦康親王しかおらず、彼女の死後は彰子が養母となっていました。

今後もしも、彰子に皇子が生まれなかった場合、敦康親王が未来の天皇になる可能性がグッと高まる。

天皇の母方実家が権力を持つのが常ですから、そうなった場合、伊周が後見者になるわけで……。

そういった経緯で、一条天皇や道長も態度を和らげたのでしょう。他の公家たちも、敦康親王の伯父である伊周の屋敷へ密かに参上していたといいます。

ただし、伊周への信頼が全回復という状況には程遠いものでした。

 

暗殺実行計画の噂を立てられるほど

寛弘四年(1007年)、妙な噂が流れます。

「藤原伊周と藤原隆家の兄弟が、伊勢の武士・平致頼を抱き込み、大和の金峰山へ参詣中の道長を襲って暗殺しようとしている」

道長は無事に帰郷しましたので、暗殺計画の真偽は不明です。

しかし、こんな噂が流される時点で、伊周や隆家への評判がわかろうというものでしょう。

寛弘五年(1008年)には伊周が准大臣とされて発言権を持ちましたが、同年9月に状況が一変します。

道長の娘・藤原彰子が敦成親王を出産したのです。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用

当然、彰子の父であり敦成親王の外祖父となる道長の権威は、さらに強まります。

母が既に故人となっている敦康親王(定子の子で伊周の甥)と、母の彰子や祖父の道長が健在な敦成親王とでは、将来の安定度が違います。

一応、寛弘六年(1009年)1月には正二位に引き上げられていますが、これは口止め料のようなもの。

翌2月には彰子と敦成親王に呪詛をかけた疑いで伊周の叔母・高階光子が捕らえられ、伊周もさらに力を奪われてます。

この呪詛事件はドラマでも大々的に取り上げられ、伊周が正気を失っていく場面は非常にインパクトがありましたね。

事件の詳細は以下の記事に譲り、

伊周による呪詛事件
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史実でも伊周は回復のチャンスは完全に失われ、事件の翌年、寛弘七年(1010年)1月28日に亡くなってしまうのでした。

享年37。

伊周は、子どもたちに含蓄のある遺言を残しています。

 

『栄花物語』では「心の幼い人」

藤原伊周の残した遺言とは?

まず息子・藤原道雅には、こんな言葉。

「人に追従するよりは出家しろ」

父親の、こうした思考が影響したのか、道雅は「荒三位(あらさんみ・乱暴者の従三位という意味)」という呼ばれ方で後世に知られています。

道雅の詳細は以下の記事をご覧いただき、

藤原道雅
あの伊周の長男・藤原道雅の生涯「荒三位」と呼ばれる乱暴者だったのは本当か?

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后がね(皇后候補)のつもりで育てていた娘たちには、こちらの言葉を残しました。

「宮仕えなどして、親の名を汚してはならない」

もしも享年37という若さで亡くならなければ、こんな遺言する必要もなかったはず。

しかし現実とは辛いもので、道長たちの意向により伊周の次女は彰子へ出仕せざるを得なくなったとされます。

清少納言の娘で「上東門院小馬命婦」と呼ばれた女性も彰子に仕えていたので、宮仕えの時期がかぶっていれば、この二人が顔を合わせることもあったかもしれません。

実は彰子のもとにはいろいろと訳ありの女性もいまして……。

一方、息子の藤原道雅は、三条上皇の皇女・当子内親王と恋仲になったものの引き裂かれ、そのストレスで乱暴な性格が浮き彫りになったのか、「荒三位」とあだ名されるまでになってしまいます。

唯一救いがあったのは伊周の長女でしょう。

彼女は道長の次男・藤原頼宗の正室となり、多くの子供に恵まれるのです。

例えば藤原全子は、藤原頼通の孫・藤原師通に嫁ぎ、嫡男の藤原忠実を産みました。

忠実は【保元の乱】の話にも出てくる人ですね。あまり良い話ではありませんが……。

彰子の女房・赤染衛門が作者ではないか?とされる『栄花物語』では、伊周を

心の幼い人

と評しています。

プライドの高さや感情の振れ幅が大きく、まさに精神面が幼い。

ドラマではまさにそんな姿が描かれ、しかも死の直前まで世を恨み……なんとも色々と考えさせられる哀しい最期でありました。


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【参考】
国史大辞典
繁田信一『殴り合う貴族たち』(→amazon

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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