長徳元年(995年)4月10日は藤原道隆の命日です。
大河ドラマ『光る君へ』で井浦新さんが演じて、ぐっと知名度の上がった藤原道長の兄ですね。
「中関白家」と呼ばれる系統で知られる道隆は、父である藤原兼家から跡目を受け継ぎ、娘の藤原定子を入内させるなどして大いに権勢を振るいました。
ではなぜ、道長の名ばかりが後世に鳴り響いているのか。
父から権力を継承した道隆と中関白家は、一体その後どうなってしまったのか?
『光る君へ』でも重要な存在だった、藤原道隆の生涯を史実面から振り返ってみましょう。
藤原兼家と時姫の長男
藤原道隆は天暦七年(953年)、藤原兼家とその正室・時姫の長男として生まれました。

藤原兼家/wikipediaより引用
時姫は全部で5人の子女を産んでいて、並びは以下の通り。
父:藤原兼家
母:時姫
◆天暦七年(953年) 藤原道隆
◆天暦八年(954年)?藤原超子・冷泉天皇女御・三条天皇生母
◆応和元年(961年) 藤原道兼
◆応和二年(962年) 藤原詮子(東三条院)・円融天皇女御・一条天皇生母
◆康保三年(966年) 藤原道長
最初に生まれた2人の「道隆・超子」と、3人目以降の「道兼・詮子・道長」は、なかなか歳の離れたきょうだいですね。
後述する通り、枕草子では”ユーモアのある明るい人物”という印象の道隆ですが、若い頃は控えめ、というか大人しい性格だったことを感じさせます。
『大鏡』にこんな記録が残されています。
藤原兼家が、あるときボヤいた。
「四条大納言(藤原公任)は何にも優れている。私の息子たちは彼の陰さえ踏めないだろう」
すると道隆と道兼は「その通り」と頷き、道長だけが
「陰といわず、面を踏んでやりましょう」
と意気込んだ。
道長の胆の太さを伝えるエピソードとしてよく知られ、同時に若い頃の道隆が控えめか、少なくとも前に出る性格ではなかったことも伝えているのでしょう。
むろん『大鏡』は後年に成立した書物ですので、そっくりそのままの出来事があったとは言い切れませんが。
妻は高階貴子
藤原道隆の若い頃は、エピソードもそう多くはありません。
その中で注目したいのが嫡妻である高階貴子(たかしな の きし / たかこ)との話です。
彼女は円融天皇の時代に内侍として仕えていた女性でした。
円融天皇の在位期間は安和二年~永観二年(969年~984年)で、天延二年(974年)には道隆と貴子の間に嫡子の藤原伊周(これちか)が生まれています。
ですので円融天皇が即位して数年のうちに、二人は夫婦関係になったようですね。

こちらの画像はイメージです『源氏物語絵巻』より/国立国会図書館所蔵
高階氏はあまり身分の高い家ではなく、道隆は彼女の性格や才気を愛していたとされます。
付き合い始めの頃に貴子が詠んだとされる歌は百人一首にも採られ、今日でもよく知られているものです。
忘れじの 行末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな
【意訳】あなたのお気持ちがどこまで続くのか、お約束はできないでしょう。それならいっそ、幸福な今日この日限りの命であったらいいと思います
和歌には「相手を想う気持ちと命を結びつけたもの」が多々あり、この歌は比較的平易でわかりやすいでしょうか。
残念なことに、道隆の返歌や反応は伝わっていません。
当時の貴族によくあることで、道隆は他の女性との間にも子供を多く授かっていますが、彼らは庶子として扱われ、あまり表舞台には登場しません。
決して身分が高いわけではない貴子の子が優遇されていました。
寛和の変
藤原道隆は貞元二年(977年)1月に昇殿を許されます。
そして、7年後の永観二年(984年)8月に円融天皇が花山天皇に譲位すると、従三位と東宮権大夫に任じられるなどして、順風に出世。
当時32歳ですので、まさしく働き盛りだった頃でしょう。
そんな折に父の藤原兼家が全盛期を迎えます。
キッカケは寛和二年(986年)6月に起きた【寛和の変】でした。
道隆の弟である藤原道兼が花山天皇を促して、退位させると同時に出家させ、懐仁親王(やすひとしんのう)が一条天皇として即位したのです。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
これで道隆の父・藤原兼家は晴れて天皇の外祖父となり、権勢を振るうようになりました。
恩恵にあずかったのは兼家だけではありません。子息たちも軒並み出世速度にブーストがかかり、超スピードで昇進を果たしてゆきます。
道隆の場合で見ますと、寛和二年7月5日~27日のわずか3週間の間に
権中納言、皇太后宮大夫、正三位、大納言、従二位、正二位
という異様なスピードで昇進・叙任されています。
さすがにやり過ぎのような気もしますけれども、この時点で兼家に異論を唱えられる者もいなかったのでしょう。
しかし兼家には限界が訪れていました。
一条天皇の元服と同時に定子が入内
正暦元年(990年)正月に一条天皇の元服に際し、父の藤原兼家は加冠役を務めました。
そしてその直後から、病気を理由として、関白と藤氏長者を藤原道隆に譲ります。
跡を継いだ道隆は、一条天皇の元服と同時に長女の藤原定子を入内させ、翌月には女御にしていたため、これで二人の関係がうまくいけば、道隆も父の兼家と同じポジションになれる。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
しかし、さらに権力を確定させたいのか、道隆は、同年10月にかなりの無茶振りをやります。
娘の定子を中宮としたのです。
当時は、
の三人が「后(きさき)」の地位にあり、これ以上増やすことはできないと考えられていました。
こういった身位は、基本的に当人が亡くなるまで保たれることになっていたからです。
そこで道隆は、皇后の別称だった「中宮」を新たな后の名前として切り離し、元々中宮だった遵子を皇后にさせ、定子を中宮に据えたのです。
後にこの手法は藤原道長にも利用され、そのときは定子が中宮から皇后となり、道長の娘である藤原彰子が中宮になっています。
道隆にとって失敗だったのは、弟であり政敵にもなる道長を中宮大夫にしたことでしょう。
この時点で、道長の長女・彰子はまだ数え3歳で、入内させることはできません。
つまりは道隆と定子が我が世の春を謳歌しようとしているのを助けなければならない立場に置かれたわけです。
道隆としては悪意はなかったのかもしれませんが、道長は決して愉快ではなかったはず。
道長に娘がいるのを知らなかったはずはありませんので……。
息子の伊周と隆家が増長し……
正暦二年(991年)になると道隆の長男・藤原伊周(これちか)が参議となり、その後、権中納言→権大納言と出世していきました。
当時の伊周はまだ19歳。
現代とは年齢の感覚が違うとはいえ、まだまだ若造が閣僚入りしたようなもので……反感を買わないわけがありません。

藤原伊周/wikipediaより引用
しかもこの辺りから伊周と弟・藤原隆家(母・貴子にとっては次男)の増長した振る舞いが増え、ますます貴族社会で目立っていくようになりました。
明言されてはいないながら、藤原道長も内心は面白くなかったでしょう。
ただし後宮では、ユーモアのある道隆一家の評判は良かったようで、定子に仕えていた清少納言は、枕草子の中でたびたび道隆や伊周について記しています。
例えば、正暦五年(994年)の道隆が法興院積善寺で一切経供養をした頃の話。
道隆が、娘の定子に対し、
「大勢の美人を側に仕えさせて眺められるとはうらやましい」
「私は宮(定子のこと)がお生まれになってから忠勤に励んできたが、まだお着物一枚すら頂戴したことがないのだよ」
と、自分の娘に対して大仰に振る舞い、女房たちの笑いを誘いました。
翌長徳元年(995年)1月には、次女の原子(内御匣殿)が皇太子・居貞親王(三条天皇)に入内。
うまくいけば三条天皇系の外祖父という地位も手に入れられるポジションを確立しました。

三条天皇/wikipediaより引用
原子が入内してまもなくの長徳元年(995年)2月、定子の御殿にやってきた道隆と貴子の様子も、枕草子に書かれています。
道隆が定子のそばで御簾の向こうに控えている清少納言の衣装の裾を見て、
「あれは誰かね」
と尋ねたり、定子や原子に食事が用意されるのを見て、
「このじいさんばあさんにも、せめておこぼれをくだされ」
と、おどけてみせています。
枕草子で道隆が登場する場面は、ユーモアのある温かい家庭といった印象で描かれていることが多いんですね。
なので政治的な面での道隆一家をあまりご存知ない方もいるかもしれません。
糖尿病らしき症状が出て
原子は後宮の淑景舎を住まいにしていたため、枕草子の中では「淑景舎」とも呼ばれます。
淑景舎には桐の木が植えられていることから「桐壺」という異称がありました。
源氏物語では光源氏の母・桐壺更衣の住まいであり、成長した後の光源氏の曹司(部屋)でもあり、後に光源氏の一人娘・明石の女御が入内した際の住まいでもあります。
源氏物語がどのような順番で書かれたのか判明していないのですが、紫式部はなぜ桐壺を物語の重要な舞台にしたのか。
帝の住まいである清涼殿から最も遠い御殿であり、桐壺更衣がいじめられている表現をしやすかったからなのでしょうかね。
しかしこの明るさの裏に、道隆は病を抱えていました。
元々大酒飲みだったこともあってか、糖尿病らしき症状が出ていたのです。
酒に酔って人前で烏帽子のない状態を晒してしまったとか、少々マズイ場面でおおらかさが出てしまうこともあったようで。
長徳元年(995年)3月9日、この病を理由として伊周に関白の地位を譲ろうとします。
しかし伊周はここまでの間に貴族社会ですっかり嫌われてしまっていたため、一条天皇はなかなか承諾しませんでした。

一条天皇/wikipediaより引用
粘って内覧(天皇関連の文書を見る令外官の役職)の地位は認めたものの、関白は許されません。
4月3日になると、道隆は関白の職を辞し、改めて伊周への関白就任を願い出ましたが、やはり許可は出ず。
道隆もいよいよと思ったのか、6日に出家します。
そして残念ながら彼の予感は当たってしまい、4月10日に薨去となりました。
享年43。
道隆死して、道長浮上す
藤原道隆の失敗は、やはり存命中に息子・藤原伊周への権力移譲を確定しきれなかったことでしょう。
摂関家はしばらくドタバタし、結局、藤原道長が浮上してきます。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
ざっくりまとめるとこんな感じです。
道隆の没後、すぐ下の弟・道兼が関白になる
↓
道兼が流行病で関白就任から7日後に薨去
↓
道隆の子・伊周と、道隆の末弟・道長がバチバチに対立
↓
伊周と弟・隆家が恋敵と誤認して花山法皇に矢を射かける(長徳の変)
↓
一条天皇の母で道長の姉・詮子が道長をプッシュ
↓
一条天皇、道長を内覧にする
ポイントとなるのは、やはり【長徳の変】です。
花山法皇とも絡んだ伊周vs道長の戦いであり、もしも長徳の変がなければ、両者の政争は長く続いたかもしれません。
決着が付く前にもしも定子が皇子を産んでいれば、伊周側が有利になっていた可能性もあるでしょう。
枕草子での登場シーンや、長徳の変に対する定子や貴子の反応などを見ていると、中関白家(道隆の系統)は「情に厚く温かい一家」という印象を抱くかもしれません。
しかし、感情だけでうまくいかないのが政治の世界。
そこでいまいちシビアになりきれなかった節があり、たとえ道長との政争に勝ったとしても、中関白家の政権は代々続かなかったかもしれません。
まぁ、道長の系統である御堂流も、娘や養女が皇子に恵まれず、徐々に衰退していくのですが……。
権力の移譲、継続の難しさを痛感させる兄弟たちであります。
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【参考】
国史大辞典





