承徳元年(1097年)閏1月29日、藤原忠通(ただみち)が誕生しました。
「誰それ?」という声が聞こえてきそうですが、あの藤原道長の5代後の子孫であり、保元の乱の一因にもなった方です。
本人が悪いというより、不幸にも無茶な父と弟に巻き込まれたと言いましょうか。
「法性寺入道前関白太政大臣(ほっしょうじのにゅうどう・さきのかんぱく・だいじょうだいじん)」という、百人一首の中でも随一の読みにくさでも知られる方で、彼の人生を見ていくと、このメンドーな呼称の意味がわかってきます。
さっそく藤原忠通の生涯を振り返ってみましょう。
藤原道長
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藤原頼通
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藤原師実
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藤原師通
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藤原忠実
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藤原忠通←この方
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あの道長の子孫という当時最高の血筋
まずは先に、今回出てくる天皇の即位順を確認しておきましょう。
白河天皇
↓
堀河天皇
↓
鳥羽天皇
↓
崇徳天皇
↓
近衛天皇
↓
後白河天皇
院政をやるのが当たり前の時期。
10年ちょっとで退位して上皇・法皇になる方が多いのですが、以降、表記上は全員「天皇」のままで統一させていただきます。
前述の通り、藤原忠通は道長の子孫です。
当時の寿命その他の理由で、130年程度しか経っていない割に【玄孫より後の代】という、なかなか表記に困る親等になっています。
しかし、この血筋に生まれただけで当時は勝ち組人生が約束されたようなもの。
忠通も、幼い頃から白河天皇の養子になったり、法皇の意向で縁談が持ち上がったり、常人には考えられないような厚遇を受けています。
仲の良さに反して子宝には恵まれず
藤原忠通が25歳のとき、父の藤原忠実が娘の入内を巡るトラブルを起こして白河法皇の勘気を被り、関白の座を追われる事件が発生しました。
父に代わって当主と関白の座についた忠通は37年もの間この地位で政治を担うことになります。
また、正室との間に生まれた娘・聖子を崇徳天皇に入内させ、後宮政治にも乗り出しました。
しかし、崇徳天皇と聖子は仲の良さに反比例して子供に恵まれず、忠通のアテは外れてしまいます。
崇徳天皇と他の女性との間には子供がいるので、おそらく聖子が子どものできにくい体質だったのでしょう。
当時はそんなことはわからないので仕方ありませんが、これが後に忠通の去就を決めることになります。
それにしても道長の時代からやってる事は変わりませんね。
「息子がいないなら頼長を養子にせんか?」
白河天皇に追われた父の藤原忠実は、10年ほどして謹慎先の宇治から京へ戻ってきました。
藤原忠通にとっては、23歳も年下の弟・頼長を連れて、です。
戻ってきた忠実は、再び勢力を盛り返そうと仕事に勤しみます。
父には逆らえない忠通ですが、それでも関白であるからには、ただ親に従っているわけにもいきません。
ところが、まだ男子に恵まれていなかった忠通は、だんだん立場が弱くなってしまいます。
挙句の果てに、忠実は「おい、お前息子がいないなら頼長を養子にせんか」と勧めてくる始末。
当時、忠通は28歳ですから、そろそろ人生のピークも見えてくる年齢です。
それもあって、忠通も一度は父の言うとおりに弟の藤原頼長を養子にすると、それから15年後、なかなか恐ろしい局面を迎えます。
忠通43歳のとき、男児が誕生したのです。
当然、忠通は実の息子に摂関職を継がせるべく動き始めました。
実弟&実父相手に始まった骨肉の政争
藤原忠通はまず、実弟・頼長との養子縁組を破棄しました。
結果は火を見るよりも明らかで、
藤原忠通
vs
藤原忠実&頼長
という骨肉の政争が勃発。
競うように娘を入内させたり、忠実が忠通へ「頼長に職を譲らんかい!」と迫ったり、お決まりの展開が続きます。
かつてアンタがいきなり仕事をやめさせられたとき、尻拭いをしたのは長男だろうよ……(´・ω・`)
部外者でもそう言いたくなる展開ですね。
残念ながら70代に入っていた忠実は、よほど気が短くなっていたようで、なんと、忠通の屋敷や摂関家の宝物を強奪して、無理やり頼長を当主にしてしまったのでした。
しばらくの間は鳥羽天皇が間に入るような形で抑えていたものの、崩御後は目に見えて、キナくさい雰囲気が漂い始めます。
そう【保元の乱】の始まりです。
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