延久6年(1074年)2月2日は、藤原道長の息子として知られる藤原頼通の命日です。
あの道長の息子。
しかも正室生まれですから、さぞやイイご身分、かつイイ生活だったろうと思いきや、そうともいい切れません。
トーチャンの影響が良くも悪くもデカすぎたからです。
教科書ではよく聞く名前ですが、もしかしたら頼通そのものを知らない方も多いかもしれません。
本稿で、藤原頼通の生涯を振り返ってみましょう。
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妻LOVEを押し通した藤原頼通
藤原頼通の出世街道は、やはり凄まじいです。
7歳で殿上童(てんじょうわらわ)
12歳で元服
15歳で従三位
21歳で権大納言
当時の貴族エリートコースを最初から突っ走りまくり。
「殿上童」とは元服前の公家の子弟が宮中へ上がることで、もちろん一部の選ばれた者にしか許されておりません。
成人してからは、ときの天子である一条天皇のいとこ・隆姫女(たかひめじょおう)を正室にもらいました。
皇族から嫁を迎えることになりますから、これには道長も大喜びでした。
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政略結婚の面が強い縁組ながら、頼通と隆姫女王は仲睦まじかったようです。
子供にこそ恵まれませんでしたが、三条天皇から「キミまだ子供いないんだって? 私の姫を降嫁させたいんだけどどうよ」(意訳)と話を持ちかけられても「妻が悲しみますので」と断ったほど。
隆姫女王を愛していたんですね。
父の道長 ゴリ押し諦める
皇族で「女王」といった場合、おおむね「天皇にならなかった親王の娘」です。
そのため、三条天皇の娘=内親王が降嫁した場合、正室であるにもかかわらず、隆姫女王のほうが格下になってしまいます。
女性にとって実家の格が最高の後ろ盾だったこの時代。
もしも三条天皇の申し出を受ければ、隆姫女王は子供に恵まれない上に格下へと追いやられ、非常に辛い立場になる……ということを、頼通は避けたのでした。
藤原道長は「皇族から二人も嫁が来るなんてラッキー!! 男は何人でも妻を持っていいんだから、お前もいろんな女性と関係を持て!」(超訳)と言っていたそうですが、頼通はうなずきません。
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そのうち頼通が病気となり、お祈りの結果、隆姫女王の父である具平親王の怨霊が現れたため、道長もゴリ押しは諦めました。
当時は「病気=怨霊の祟り or 神仏の罰」という価値観ですから、これにはさすがの道長も引かざるを得なかったようです。
三条天皇に譲位を迫る道長
幸い、内親王降嫁の話が取りやめになると、頼通の病は快癒しました。
現実的に考えると、板挟みで神経性の病気になっていた可能性がありますよね。そういうときに悪夢を見て、舅である具平親王のことを寝言に出していたとか、そんな感じでしょう。
三条天皇からすると、この件は道長懐柔策の一つだったので、悔しかったでしょうね。
当時の皇太子は道長の孫(藤原彰子の子供)でしたので、道長は外祖父として権力を握るため、しきりに三条天皇に退位を迫っていました。
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三条天皇にとっては鬱陶しいことこの上ありません。
そこで頼通に内親王を降嫁させることによって、道長をなだめて皇位を保とうとしたのです。
とはいえ、三条天皇も自分の子供たちには深い愛情を注ぎ、子供たちも三条天皇を思いやっていたエピソードが多々ありますので、頼通の妻を想う気持ちも理解していた……と思いたいですね。しかし……。
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