寛弘2年(1005年)9月26日は安倍晴明の命日です。
呪文を唱えて妖怪たちを薙ぎ倒す陰陽師――ちょっと前までは、そんなSF的イメージが先行していましたが、大河ドラマ『光る君へ』でかなり印象が変わったのではないでしょうか。
怪しげなオーラを醸し出しながらも、要所要所で、藤原兼家や藤原道長に対して政治的助言を繰り出す。
ユースケ・サンタマリアさん演じる安倍晴明が味わい深く、とにかく不思議な存在でした。
そこで気になるのが、史実の安倍晴明です。
藤原道長の日記『御堂関白記』や実資の『小右記』などにもその名が登場するほどの存在でしたが、では実際、当時の陰陽師はどんな存在で、いかなる影響力を持ち、政治に関わったのか?
日本史で最も有名な安倍晴明の生涯を振り返りながら、当時の仕組みや風習なども見てまいりましょう。
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謎多き出自や青少年期
安倍晴明の前半生は謎だらけ。
特に誕生~青年期は不明なことが多く、生まれは延喜21年(921年)と推測され、出自に関する伝説も何かとぶっ飛んでます。
軽くいくつか触れておきますと……。
◆阿倍仲麻呂の子孫説
阿倍仲麻呂は「帰国できなかった遣唐使」として有名な人。
天才的な頭脳を持っていた人としても知られますね。
阿倍仲麻呂の子孫説では、
「仲麻呂の魂が鬼となって生き延び、遣唐使の後輩にあたる吉備真備を助け、真備が日本へ帰ってきた後、恩返しとして仲麻呂の子孫である晴明の父へ唐の玄宗からもらった陰陽道の秘伝書を渡したが、晴明の父は興味を示さず、晴明が独学で秘伝書の内容を身に着けた」
ということになっています。
思わず頷きそうになってしまいますが「魂が鬼となって……」というのはキツいですね。
一条天皇の時代に、晴明が大陸由来の神・泰山府君を祀って天皇の長寿を祈る儀式をしているため、晴明が大陸の神にも詳しかったことは確かです。
◆狐の子説
「晴明の母親は信太明神の化身である狐」という説もあります。
仲麻呂の説は「魂が云々」という点を除けば、ありえなくもない話ですが、さすがに狐の子というのは……。
◆そもそも人間ですらない説
室町時代ごろには「安倍晴明は”化生の者”だった」という伝説が広まっていたようです。
字面そのまま、晴明は化け物扱いされていた。
化け物には化け物を……ということでしょうか。
文学や暦の知識をまとめた学問
いかがでしょう?
生まれからしてアヤフヤというか、「何もわかってない」ということだけがわかっている状況ですね。
陰陽師になった経緯も不明。
代々そうした家系であれば何らかの記録は残されそうですので、そうではないということでしょう。
ただし師匠はいて、賀茂忠行とその息子・賀茂保憲という人物だったとされます。
前述の通り、陰陽師というと「妖怪退治の専門家」というイメージを抱かれがちですが、元々、陰陽道とは
「天文学や暦の知識をまとめた学問」
のことです。
その過程で占いや呪術なども取り入れられ、病をもたらすとされた“怨霊”や”物の怪”などを祓う役目も担うようになりました。
古い時代には学問の分野は”道”と呼ばれていて、他にも紀伝道(中国史中心の歴史)や文章道(漢文学)、明経道(儒学)などがあります。
現代でいえば、茶道や華道など、芸術関連にその名残がありますね。
また、当時は国の機関として「陰陽寮」という役所があり、暦を作ったり時刻を計測したり、天体観測や怪異の吉凶を占っています。
天皇や后妃、公家などの凶方位や吉日などを占い、どの人の凶日にもかち合わない日を選んで行事の日を決める、というのも陰陽師の重要な役目です。
「国や皇族・上層貴族のスケジュールを決める役所」というとわかりやすいかもしれませんね。
そして、元々お役所的だった陰陽師は、占いは行っても呪術は範疇外であり、陰陽師=呪術のイメージが強まったのは、晴明以降だと考えられています。
晴明自身、たびたび魔除けのお呪いなどを行っていました。
要は彼が陰陽師という存在のターニングポイントであることは間違い無さそうですね。
陰陽師の中には、当時の犯罪である呪詛などを受ける者も出てきて、それを祓うのも陰陽師という状況へ。
こうなると役人の陰陽師だけでは人数が足りず、僧侶が兼業で占いや呪いをすることも出てきます。
他ならぬ紫式部や清少納言もその手の陰陽師にお祓いをしてもらったことがあるとか。
陰陽師そのものの説明はこれぐらいにして、安倍晴明個人のことを見てまいりましょう。
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