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【安倍晴明】
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村上天皇にも依頼された腕前
安倍晴明が記録上に初めて登場するのは、天徳四年(960年)のことです。
延喜21年(921年)誕生説が正しければ、40歳手前でやっと表舞台に出てきたことになりますね。
ときの帝は村上天皇。
公的な記録にこそ出てきませんが、晴明の占いは既に知られていたらしく、村上天皇にも依頼されたことがあります。
以降、天文博士や主計権助などの官職を得て、位階はさほど高くないながら色々と仕事を任されていきました。
主計(権)助は、税収を司る「主計寮」という役所の次官です。占いや天文とは一見関係なさそうですが、数学的能力を買われたのでしょうか。
花山天皇時代にはその実力を高く評価され、陰陽師の代表格として広く認められています。
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花山天皇が皇太子だった頃には、天狗退治をしたこともあったようです。
一条天皇に代替わりした後もそれは変わらなかったらしく、諸々の記録で
「晴明に占わせた」
「晴明にまじないをさせた」
といった記述が頻出するようになります。
実資、行成、道長らの日記に登場
いくつか例を紹介ておきましょう。
→正暦四年(993年)2月、一条天皇が病気になったため、晴明が禊(みそぎ)を行ったところ、たちまち治ったので、褒賞として晴明は正五位上に任じられたといいます。
◆藤原行成『権記』
→長保二年(1000年)、火災で内裏から避難していた一条天皇が戻る際、晴明が反閇(へんばい)というまじないを行いました。
行成いわく「史上初」とのこと。
◆藤原道長『御堂関白記』
→寛弘元年(1004年)7月、「深刻な干魃が続いたため、晴明に雨乞いの五龍祭を行わせた」という記述があります。
そして見事に雨が降ったため、一条天皇から衣類が下賜されたとのこと。
実資、行成、道長と、当時一線級の貴族たちに注目されていたことが浮かんできますよね。それだけ晴明が様々な儀式に通じていたのでしょう。
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繰り返しになりますが、延喜21年(921年)生まれだとすると一条天皇の時代には80歳前後ですから、決して順風満帆な人生とはいえません。
むしろ、この長命ぶりが晴明の伝説的な活躍に尾ひれをつけたのでしょうか。
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