源明子

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)

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源明子も道長の妻だった~6人の子供に恵まれた彼女は藤原に恨みを?光る君へ瀧内公美

源氏物語』の主人公である光源氏。

光り輝くような賜姓皇族であり、天皇の子として 生まれながら天皇にはなれない宿命を背負う――そんな光源氏のモデルは複数いるとされます。

藤原道長もその一人ですが血筋から考えると濃度は若干薄まり、血統や境遇から有力視されているのが源高明です。

天皇の子として生まれ、人格高潔でありながら、悲運の生涯を辿った人物。

そしてその娘である源明子は、藤原道長の妻となるのですから皮肉なものです。

そもそも父である高明は、藤原氏によって失脚に追い込まれ、娘は大切な後ろ盾を失ってしまいました。

高貴な血を引きながら不遇の道を歩まされたとも言える父娘。

どこか悲しげな雰囲気さえ漂っている源高明と源明子、二人の生涯を振り返ってみましょう。まずは高明から。

 

光り輝くような醍醐天皇の第十皇子

源高明は、醍醐天皇の第十皇子として生まれました。

天皇は何が何でも皇子をもうけなければならない。

死亡率が低い時代ですから男子は多いに越したことはありませんが、あまりに多すぎても悲運に見舞われることになります。

たしかに平安中期となれば古代のように殺害されることはなくとも、かといって幸せな暮らしが待っていたわけでもない。

学識に富み、野心を抱いていなくても、天皇の血を引くというだけで排除される危険性すらあります。

外戚政治を狙う者たちは、とにかく自分とは関係のない皇子たちを政治の舞台から引きずり下ろすのが目的なのです。

源高明は、そうした悲運のもとに生きることとなりました。

まずは彼の生まれと官位を確認しておきましょう。

延喜20年(920年)更衣周子を母として生誕

延喜20年(920年)7歳で源氏を賜ると、延長7年(929年)に元服し、翌延長8年(930年)になると17歳で従四位上に叙される

天慶2年(939年)26歳で参議、公卿に列する

天暦元年(947年)権中納言

天暦2年(948年)中納言

天暦7年(953年)大納言

康保3年(966年)右大臣

康保4年(967年)左大臣

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官位と位階
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実にスムーズな出世をしておりますよね。

高明は、儀式書である『西宮記』を執筆できるほど有職故実に通暁していて、琵琶の名手でもあり、藤原師輔の三女と五女を妻としていて姻戚関係も盤石だったのです。

人相見からは「貴人の相」だとも言われていました。

光源氏も高麗人(こまびと)の人相見から、貴人の相であると指摘されています。

ここまでは占い通りの人生であり、同時に人相見は、彼の悲運も予見していました。

 

安和の変:源高明の失墜

康保4年(967年)、冷泉天皇が即位しました。

冷泉天皇は子供がいない上に病弱ですから、早い段階で「東宮を誰にするか? 一刻も早く決めておかねば!」という政治闘争が始まります。

まだまだ長幼の序が根付いていない時代ですから、兄も弟も関係なく対立構造が生じてしまう。

以下のように冷泉天皇の弟二名が候補とされ

為平親王:妃の父が源高明

守平親王:藤原安子(父は藤原師輔)が母

兄の為平親王が東宮となることが自然であるにもかかわらず、結果は藤原氏の推す守平親王となりました。

源高明にとって、藤原師輔は岳父です。

しかし師輔はすでに亡くなっており、その次世代の藤原氏たちは高明を追い払おうとします。

次世代とは、師輔の息子たちである藤原伊尹・藤原兼通・藤原兼家らのことで、彼らは「外戚不善の輩」と呼ばれながらも権力は絶大でした。

藤原兼家
藤原兼家の権力に妄執した生涯62年を史実から振り返る『光る君へ』段田安則

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安和2年(969年)、事件が起こります。

為平親王を擁立するため守平親王の廃立を狙った陰謀があると、密告があったのです(【安和の変】)。

為平親王に娘を嫁がせていた高明は、この事件で失脚。

「出家を条件」に京都に留まることを希望するも、事件後、太宰権帥(だざいのごんのそち)とされ、筑紫へ左遷されてしまうのです。

そして3年後の天禄3年(972年)に帰京し、天元5年(982年)に死没。

享年69。

高潔で悲劇的な源高明が『源氏物語』の主人公モデルとされるのは、流罪で嘆く貴公子の姿が源高明のことを彷彿とさせたからでしょう。

では、その娘である源明子は、道長と結ばれ、どんな生涯を過ごすことになるのか?

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