長徳2年(996年)10月、藤原道隆の嫡妻として知られる高階貴子(たかしなのきし/たかこ)が亡くなりました。
大河ドラマ『光る君へ』で、目下、呪詛に勤しんでばかりの藤原伊周の母(藤原隆家はその次男)。
その藤原伊周が権力に妄執した挙げ句、事件を起こして中央から追い出されてしまう――その際、伊周のそばにいたのが母の高階貴子でした。
既にいい大人である息子に付きそう姿は、言い方は悪いですがマザコン母子の雰囲気すら漂っていた。
しかし、史実の彼女は、いわゆる才媛タイプの有能な女性であり、今なお彼女の名を高めている歌が『百人一首』に収められています。
ロマンチックな和歌として知られる、この一首です。
忘れじの 行く末までは 難(かた)ければ 今日を限りの 命ともがな
「いつまでもあなたのことは忘れない」
あなたはそう言うけれど、その約束がずっと変わらないことは難しいでしょう。
だからいっそ、その言葉を聞いた今日、命が尽きてしまえばよいのに……。
『新古今集』に収められ、『百人一首』では「儀同三司母(ぎどうさんしのはは・藤原伊周の母)」として再録されたこの歌。
なんて優しいのか、技巧に頼らず素直だな……と現代人の胸にも響きそうですが、同時に、幸せの絶頂にある中でどこか不安も感じさせる内容でもあります。
ご存知のとおり、藤原伊周・藤原定子・藤原隆家という彼女の子どもたちが、揃って没落してしまうからです。
夫の藤原道隆が亡くなってから、瞬く間に堕ちていく中関白家。
それを支えていた高階貴子とは、史実ではどんな女性だったのか。
生涯を振り返ってみましょう。
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才女として、貴公子にみそめられる
円融天皇の時代、高階貴子は内侍として出仕していました。
高階家はさほど身分は高くはなく、貴子の生年も不明ながら才知あふれる女性であり、やがて和歌や漢籍の知識が周囲に知られるようになってゆきます。
そして中関白の藤原道隆に見初められました。
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朗らかで明るい性格な道隆は、酔って乱れてしまう様もあり、そんなところも好ましい人物です。
しかし、当時の貴族社会は、男性が女性のもとへ足を運ぶ「通い婚」の時代。
藤原北家の貴公子・道隆に愛されることは幸せの絶頂と言える一方、それがいつまで続くのかもわからない。
幸せと不安を同時に抱えながら、貴子の愛は実ります。
道隆の妻となり、彼女は複数の子を産みました。
藤原伊周(974-1010)
藤原隆家(979-1044)
藤原隆円(980-1015)
藤原定子(977-1001)
他3女
時の権力者・藤原隆家の妻として、子に恵まれ、その子も栄達してゆき、貴子は永遠の幸せの中にいるようにも思えます。
しかしそれは、長くは続きません。
娘・定子が一条天皇の寵愛を受ける
高階貴子の夫・道隆は、順調に出世を重ね、永延3年(989年)には内大臣、永祚2年(990年)に関白、そして摂政となりました。
夫妻の間に生まれた藤原定子は美しく、才知あふれる女性として育っていく。
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更なる高みへ歩み始めた道隆の一族――こう書くと素晴らしいようで、当時の貴族たちは暗い予感を抱いてもおかしくはありません。
彼らは白居易の『長恨歌』をこよなく愛していました。
そこに描かれているのは、玄宗に寵愛される楊貴妃の姿。
あれほど美しく愛された楊貴妃であっても、運命は儚いものだった……いや、愛されたからこそか……という教訓も含んだ詩。
そんな伝説的な寵愛を彷彿させるような愛を、定子は受けていました。
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定子が一条天皇から深く愛されると、兄弟たちも華々しく出世してゆきます。
嫡男である藤原伊周は正暦3年(992年)、わずか19歳で権大納言へ上り詰め、さらに翌年には内大臣となる。
まさに楊貴妃とその一族を思い起こさせるような出世ぶりであり、栄華は貴子の父・高階成忠まで及び、従二位と朝臣の姓まで賜ります。
しかし、です。
やはり栄華とは儚いもの。長徳元年(995年)、夫の道隆が病で没すると、一族に翳りが見えてきました。
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