承保元年(1074年)10月3日は、藤原彰子が亡くなった日です。
藤原道長の娘であり、史上初の「二后」になった人として有名ですね。
しかし、父親があまりにもゴリ押し&有名すぎるので、彼女本人がどんな人だったのかということはあまり知られていません。
本日は彰子の一生を見ていきましょう。
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藤原彰子 11才で一条天皇のもとへ入内
上記の通り、彰子は藤原道長の長女として生まれました。
正室の娘でしたし、当時の政治状況からしても道長は狂喜乱舞したでしょう。
彰子8歳のとき、道長は実質的な政治の中枢にいて、そのもとに生まれた彼女の運命は決まったようなものでした。
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そして彰子11歳のとき、8歳年上だった一条天皇のもとへ入内します。
先に入内していた従姉の定子とは11歳差であり、ついでにいえば彰子が入内した年に定子は第一皇子を産みました。
歳がもっと近ければ当人同士も火花を散らしたでしょうか。
これだけ離れていたから、そうはならなかったのかもしれません。
定子は、彰子の入内・立后から2年後に亡くなっていますし、彰子は定子の生んだ皇子(敦康親王)を育ててもいます。
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政治的な事情もあり、二人の父親や兄弟が政争を繰り広げていたので、女性たちも気まずい思いをしていたのでしょう。
定子が亡くなった後、彰子は唯一の后となり、20歳のときに皇子を産みました。
後の後一条天皇です。
その翌年にも皇子を産んでおり、これで道長の立場は確たるものとなりました。
外祖父としてアレコレ口を出せるからです。
凄まじく才能溢れる女官だらけ
彰子31歳のとき、夫の一条天皇は従兄の三条天皇へ譲位しました。
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その際、新しく皇太子になったのが、先に生まれていた定子の皇子ではなく、彰子の皇子でした。
もちろん道長のゴリ押しです。
彰子は、一条天皇が敦康親王を皇太子にしたがっていたこと、また彼女も敦康親王を愛情深く育てていたこともあり、相当悔しい思いをしていたようです。まぁ、そりゃそうだ。
そうした複雑な胸中を慰め、また支えになったと思われるのが、彰子の周辺に仕えていた女房たちでした。
彼女の周辺はとても文学的才能に溢れた女房(女官)がたくさんいます。
紫式部を始め、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔(いせのたいふ)といった、百人一首にも取られている名歌の作者や、有名な物語の作者が揃っていたのです。
簡単にまとめておきましょう。
・紫式部
やや気難しい面もありましたが、彰子の幼い頃から仕えていて、家庭教師役でもありました。最も頼れる人だったでしょう。
また、「源氏物語」を読んだ彰子が登場人物の一人・紫の上をいたく気に入り、彼女の女房名を「紫式部」にしたといわれています。それまでは父親が藤原姓であることから「藤式部」と呼ばれていたとか。
現代では、清少納言への辛辣な評が有名ですが、別に徹頭徹尾冷たい人だったわけではありません。詳しくは以下の記事にて。
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・和泉式部(いずみしきぶ)
宮廷内でとにかくモテた人で、親王兄弟に愛されたこともあります。
ただし身分ゆえか性格ゆえか決めきれず、ドロドロした状態になってしまいました。
著作である「和泉式部日記」には、そうした恋に悩む様子などが書かれています。和歌は奔放というか、独自の表現が多いですね。
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百人一首には「あらざらむ この世の外の 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」という歌が取られています。「私はもう長くないだろうが、せめてこの世の最後の思い出に、あの人にもう一度会いたい」という切ない意味です。
晩年の詳細は不明ですが、和泉式部は娘に先立たれてもいるので、晩年はかなり寂しいものだったと思われます(´;ω;`)
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