寛弘8年(1011年)6月22日は一条天皇が崩御された日です。
かつては『枕草子』や『源氏物語』のファンにしか注目されないような存在でしたが、昨年、状況は激変。
ご存知の通り、大河ドラマ『光る君へ』で極めて端正な顔立ちの塩野瑛久さんが演じ、難事を抱えて苦悩に苛まされる姿がお茶の間で話題となりましたね。
では実際の一条天皇はどんな人物だったのか?
藤原定子や藤原彰子だけでなく、藤原道長や藤原道隆、あるいは母の藤原詮子とは、どんな関係を築いていたのか?
意外と知られていない、史実の生涯を振り返ってみましょう。

一条天皇/wikipediaより引用
兼家の孫で詮子の息子
一条天皇は天元三年(980年)6月1日、円融天皇の第一皇子として生まれました。
母親は藤原詮子。
『光る君へ』では吉田羊さんが演じていたパワフルな女性ですね。

藤原詮子/wikipediaより引用
ドラマでも描かれたように、彼女は藤原兼家と時姫の娘であり、同母きょうだいとして、道隆・道兼・道長の三兄弟と姉の超子がいます。
つまり藤原兼家にとっては非常に都合の良い血筋の皇子が生まれたわけですが、ことはそう単純でもありませんでした。
その父である円融天皇が譲位して、次に第65代天皇になったのが、息子の一条天皇ではなく、甥の花山天皇だったのです。
花山天皇は、冷泉天皇の子であり、母親は藤原懐子です。
兼家と血縁がないわけではありませんが、それよりも懐子の弟である藤原義懐(花山天皇から見て叔父)のほうが頼れる――そんな姿がドラマでも描かれていましたね。
政権としては
花山天皇with藤原義懐その他
という構図で、永観2年(984年)9月に樹立。
同年、一条天皇も皇太子となり、第66代天皇の候補になっていたのですが、我慢出来ないのが藤原兼家です。
なんせ花山天皇は即位の時点で数え17歳とまだ若く、明日をも知れぬ56歳の兼家にとっては、一刻も早く退いてもらわねばならない状況。
しかし、このときは花山天皇の若さが裏目に出ました。
【寛和の変】です。
藤原忯子の死を嘆き悲嘆に暮れていたとされる花山天皇が藤原道兼にそそのかされ、寛和二年(986年)6月、突然、出家&譲位してしまったのです。
『光る君へ』でも第10回放送の序盤で大きな山場となりましたね。

道兼によって出家に追い込まれた花山天皇を描いた月岡芳年「花山寺の月」/wikipediaより引用
ともかくこの一件で、一条天皇が第66代天皇として即位します。
まだ7歳で即位 皇太子は年上の居貞親王
一条天皇が即位したのは寛和2年6月23日(986年8月1日)のこと。
数えでまだ7歳という幼さであり、これを支える摂政は藤原兼家が務めます。
兼家の抜け目ないのが、一条天皇の年長いとこ・居貞親王(のちの三条天皇)を皇太子にしたことでしょう。
居貞親王も兼家の娘・藤原超子の子であり、外孫となります。
【父】冷泉天皇
【母】藤原超子(藤原兼家の娘)
【子】居貞親王(のちの三条天皇)
居貞親王の同母弟は複数人いるので、兼家が長命であればあるほど多くの天皇に影響を与えることが可能な状態。
それだけでなく兼家は、娘の藤原綏子を孫の居貞親王に入内させるのです。
抜け目ないというか、血筋が大混乱というか。
「平安時代のゴリ押し婚」というと藤原道長を連想する方が多いと思われますが、父親である兼家の野心はそれを上回るのではないでしょうか。
というか、道長が父のやり方を踏襲したというほうが相応しいですね。

藤原兼家/wikipediaより引用
兼家はこうして「幼帝の外祖父」という立場を利用して、息子である道隆・道兼・道長たちを急速に昇進させていきます。
現代であれば小学校低学年の一条天皇に、自分の意志を通せる力や意志などなかったことでしょう。
そこで気になるのが母親の藤原詮子かもしれません。
ドラマでは父親と対立姿勢を鮮明にしていましたが、実際のところ、息子の一条天皇が即位しても、大きな政治的関与は見られません。
行幸などの際に、幼い一条天皇と同じ輿に乗ったり、母親としての役割を果たしている印象です。
それよりも注目は、道長との関係でしょうか。このころ詮子の屋敷である東三条殿には道長も暮らしていました。
二人は後に政治的関係を強めていきますが、父親のやり方を間近で見ながら姉弟で結びつきを強めていったのではないでしょうか。
実資も褒めた「笛」の才
こうして藤原兼家の目論見通りに、安定したかのように見えた政権。
唯一といっても過言ではない懸念事項は、一条天皇が虚弱体質だったことでした。
成長してからもたびたび体調を崩していた記録があり、一例を見てみますと、永祚元年(989年)の年初も体調がすぐれなかったことが記されています。
この状況を懸念した父の円融上皇が、石清水八幡宮で祈祷するよう藤原実資を遣わしたり、人事に介入したり、その結果、兼家との仲が怪しくなっていきます。
もちろん兼家も、一条天皇が早く崩御してしまっては困ります。
そこで病気の平癒祈願や夢のお告げなどを理由に、藤原氏の氏神である春日大社へ一条天皇の行幸を奏上しました。

春日大社
しかし、そもそも天皇が山城の地を離れることが稀なことで、スンナリとは決まりません(前回は弘仁六年・815年に嵯峨天皇が近江へ行幸)。
行き先が藤原氏の氏神である春日大社ですので、父の円融上皇や、前例を重んじる多くの公家たちとしては当然面白くないわけで。
すったもんだの末に春日大社への行幸が決行され、この問題は収まったようです。
ただし、円融上皇も石清水八幡宮や賀茂神社などに祈祷をさせた上で、自ら石清水八幡宮へ出向いて病気平癒を祈っていますので、水面下でバチバチしていたのでしょうね。
当時10歳の一条天皇にしてみれば「お爺さんも父さんも何してるの……?」という状況。
それだけでなくハレー彗星の通過や台風による被害などの天災が続き、人々は不安に包まれ、そんな中で催された管楽の会で、一条天皇はある才能を見せています。
「笛」です。
当時、円融上皇の院別頭(上皇の家政を取り仕切る人)を務めていた藤原実資は、

藤原実資/wikipediaより引用
日記『小右記』の中で
「災害の続いている中で遊びをするのはいかがなものか」
と思っていながらも一条天皇の笛を聞き
「これは天の与え給うたもの」
と絶賛しているほど。
公家の日記というのは、子孫をはじめ“他者が読むこと”が念頭に置かれていますので、多少の忖度が入りがちですが、実資の実直な性格からすると実際に素晴らしい演奏だったのでしょう。
定子が入内 今度は道隆が強引に立后
不穏なこともありながら、少しずつ成長していった一条天皇。
正暦元年(990年)1月5日に11歳で元服すると、同年1月25日に藤原道隆の娘・藤原定子が入内します。

枕草子絵詞/wikipediaより引用
定子が4歳上のいとこという関係で、二人の仲は非常に睦まじかったようです。
『枕草子』にも、その様子がうかがえる段が複数あるので、一条天皇のプライベートな面や少年らしさを知りたい方にはオススメいたします。
この年は、藤原氏の世代交代が起きた年でもありました。
同年5月、重病のため藤原兼家が出家し、それにともなって道隆が関白と摂政を継いだのです。
通常であれば元服した天皇に摂政がつくことはないのですが、一条天皇の年齢が年齢なだけにこうなったのでしょう。
兼家は同年7月に亡くなり、同じ頃に一条天皇も病気になっていました。
そのためか、道隆は定子の立后を急ぎます。
兼家の喪も明けない中、しかも円融上皇の中宮・藤原遵子がいたのですが、道隆は”遵子を皇后にして定子を中宮に立てる”という荒業をやってのけるのです。
後に道長がほぼ同じことをしているので、道隆は自分に不利になる前例を作ってしまったことになりますね。
当然、他の貴族たちには大不評で、儀式をサボったり遅刻した者が多々いたそうです。
この道隆の強引なところは、息子たち(藤原伊周や藤原隆家)にも受け継がれ、後にこの系統(中関白家)に災いをもたらすことになりますが、それはまだ先の話。
正暦二年(991年)2月、一条天皇の父・円融上皇が薨去すると、本格的に道隆一家の権力が増していきました。

藤原道隆(菊池容斎『前賢故実』)/wikipediaより引用
道隆の嫡子・伊周を諌める一条天皇
父の魂が乗り移ったかのごとく権力道を突っ走る藤原道隆。
円融上皇の薨去に伴って落飾していた妹の藤原詮子を史上初の女院とし、政治的な力をつけさせました。
この後の彼女が、道隆の息子で甥の藤原伊周ではなく、弟の道長を推すようになっていくのは、兄(と亡くなった父)への反発もあったのかもしれません。
しかし、一条天皇の母である詮子に権力を持たせたのは失敗とも言えました。
道隆は、その後、持病の飲水病(現代でいう糖尿病)が悪化し、長徳元年(995年)には、明日をも知れぬ重体に陥ってしまいます。
糖尿病は道長も患ったとされ、遺伝的にも影響があったのでしょう。
ともかく道隆は、自らの意識があるうちに、嫡子の藤原伊周(これちか)に自分の地位を譲ろうとしました。

藤原伊周/wikipediaより引用
これを許さなかったのが一条天皇です。
父の威光を笠に着ているような言動が多かった伊周に良い印象を抱いておらず、これを許さなかったのです。
当然、伊周や母方の高階氏は抗議しますが、一条天皇はなかなか許しません。
最終的に、一条天皇は
「政務はまず道隆が目を通してから、伊周も見るように」
と命じます。
この後も伊周はゴネ続けましたが、一条天皇は頑としてはねつけています。16歳になり、自分の意志をはっきり出せるようになっていたのでしょう。
母后である詮子が、伊周ではなく、道兼や道長に関白を継がせていこうとしていたことも理由だと思われます。
長徳の変
程なくして藤原道隆が逝去。
関白の座が、すぐ下の弟・藤原道兼に転がり込むと、道兼もわずか数日で死去するという、なんだかキナ臭い結果となります。
「七日関白」と言われたりしますが、この辺、ドラマでどう描かれるか楽しみですね。
となると次の関白は誰になるのか?
詮子の後押しもあり、道隆の嫡子・藤原伊周ではなく、道長が内覧・右大臣として権力をふるい始めました。
むろん伊周も簡単には諦めきれない。
引き続き、道長らと対立姿勢でいたところ、とんでもない事件を起こしてしまいます。
自らが通っていた女性に関して花山法皇と暴力沙汰に発展してしまい、矢を射かけてしまったのです。
花山法皇、まさかの表舞台に再登場。

花山天皇/wikipediaより引用
実際は伊周の単なる勘違いだったのですが、いずれにせよ法皇を相手に矢を放ち、暴力沙汰まで起こした一件は道長の耳に入ったとされ、地方へ飛ばされることに。
いわゆる【長徳の変】と呼ばれる騒動に発展したのでした。
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都落ちが決定した伊周は「病気なので配流先に行けません」と言ったり、定子の御殿に逃げ込んだり、いろいろと逃げ回って、なかなか配流先に行こうとしませんでした。
日頃の言動もあった上での行動ですから、当然、一条天皇も許しません。
定子の御殿は、彼女を退出させた後、天井や床板を剥がしてまで探して引き立てさせたといいます。
そのため兄弟が連行されていく様を見た定子が大きなショックを受け、自らハサミを手にとって髪を落としてしまったとか……。
彼女は身重の体だったため、公家たちに二重の意味で白い目を向けられることになります。定子本人にはあまり責任がないことだけに、なんともすっきりしない話です。
彰子の入内
長徳二年(996年)、一条天皇と定子の間に脩子内親王が生まれ、3年後の長保元年(999年)には敦康親王が誕生。
一度出家したにもかかわらず定子を愛し続けた一条天皇に対し、批難の声もあったようですが……愛の力ってスゴイ。
すると、それを黙って見過ごすことができない男が立ち上がります。
一条天皇の叔父である藤原道長。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
同じく長保元年、娘の藤原彰子を入内させるのです。
不穏な空気が漂い始めました。
彰子は当時、裳着を終わらせたばかりの12歳であり、一条天皇からすると8歳下の幼い女の子。
確かにこれぐらいの年齢で結婚することも珍しくない時代ですが、既に定子を娶り、子供にも恵まれていた一条天皇からすると、困惑して当然でしょう。
『栄花物語』では、彰子のもとへ渡った一条天皇が
「(彰子と並んでみると、年が離れているので)私が翁のように思えてしまって恥ずかしいな」
とふざけたことがある、とされています。
しかし、道長としては当然
「ぜひウチの娘から皇子を!」
となるわけです。
道長もたびたび病気をしていましたので、余計に焦る気持ちがあったのかもしれません。
そのため長保二年(1000年)、彰子が中宮に立ち、定子は皇后となりました。
定子の立場を守った形にはなりますが、道長以外でこのことを好意的に受け止めた人がいたかどうか。
そして長保二年(1001年)12月、媄子内親王を出産した定子は、直後に亡くなってしまいます。
定子の妹・御匣殿も……
一条天皇はひどく悲しみ、定子の遺児である皇子・皇女の世話をしていた定子の妹・御匣殿(みくしげどの)を愛するようになりました。
御匣殿というのは女性の官職の名前で、実名は伝わっていません。
彼女は一条天皇の寵愛を受けて身ごもると、経過が良くなかったのか、妊娠中に亡くなってしまいます。
御匣殿の中に定子の面影を見ていた一条天皇にとっては、相当堪えたことでしょう……。
一方、なかなか子供のできなかった藤原彰子は、寛弘五年(1008年)、念願かなって懐妊。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
同年に敦成親王(のちの後一条天皇)、寛弘六年に敦良親王(後朱雀天皇)が生まれ、俄然、道長の権勢が強まり、その座が確立してゆきます。
そして一条天皇にとっては定子の忘れ形見である敦康親王の皇位継承も難しくもなりました。
当時は母の実家が何よりも後ろ盾になる時代です。
敦康親王は既に母・祖父・曽祖父を亡くし、母・定子の兄弟である藤原伊周や藤原隆家も失脚してしまっていたため、血筋の近い人々から後押しを得にくい状態でした。
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定子と御匣殿が亡くなった後、一条天皇が敦康親王を彰子に預けたのは「なんとか敦康親王の将来を明るいものにしたい」という親心だったのでしょう。
もしも彰子が皇子を産めなければ、そのまま彼女を義母として立太子などしたのかもしれません。
しかし現実はさにあらず。
彰子から敦成親王と敦良親王が生まれ、敦康親王は日陰の存在にならざるを得なくなります。
彰子としても敦康親王に対して悪意など無かったようですが、いかんせん道長のゴリ押しがあり、抗いきれません。
『栄花物語』では、彰子の懐妊に気付いた一条天皇が、彰子が恥ずかしがって止めたにもかかわらず、自ら道長に知らせたといいます。
物語ですので事実かどうかは不明なれど、一条天皇も、後ろ盾(道長)のシッカリした子供を授かったこと自体は嬉しかったのではないでしょうか。
子供が無事に生まれても、そのまま成人まで育つ確率は低かった時代ですし……実際、定子の遺した媄子内親王もわずか9歳でこの世を去っています。
自分が病弱であることも含め、一条天皇は人の命の儚さを強く感じたことでしょう。
一条天皇に他の妻たちは?
一条天皇のもとに入内したのは藤原道隆と藤原道長の娘だけではありません。
他にも有力どころから
といった女性たちが入内して、彼女たちは子供に恵まれませんでした。
元子とはたびたび同衾していたようですが、懐妊の後に流産しています。
義子や尊子は懐妊したことがないようです。
本人たちの体質的に子供ができにくかった可能性もありますが、後ろ盾となる実家の政治的基盤が弱かったため、一条天皇があまり通わなかったのかもしれません。
他にも、二つの理由がありそうです。
一つは一条天皇の父である円融天皇の影響。
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詮子以外とは子供をもうけようとしなかった父の円融天皇は、愛情というより政治的な意図が強かったと考えられます。
円融天皇は一回り年上だった最初の中宮・藤原媓子(こうし/てるこ)と仲睦まじいながら、子供に恵まれないまま彼女が薨去。
そこで、後ろ盾の確かな兼家の娘・詮子と子供を作ったと考えられるのですが、それでいて詮子ではなく、藤原遵子(藤原公任の姉)を中宮にしているのです。
さらには姪にあたる尊子内親王を寵愛したりしていました。
円融天皇は、愛情と政治的な責任をあえて分離していたと考えられるのです。
そうした父の薫陶を受けた上で政情を考えていたとすれば、一条天皇も「子作りは政治を意識してするもの」という価値観があったのではないでしょうか。
定子については幼い頃から親しんだ相手でもあり、例外だったのでしょう。
もう一つは当時の皇室の血筋事情です。
一条天皇の父・円融天皇は、冷泉天皇の弟でした。
冷泉天皇本人が少々精神的に不安定だったため、若いうちに退位させられましたが、問題のない複数人の皇子たちがいました。
そのため、当時の皇室では冷泉天皇系と円融天皇系の血筋が混在しており、円融天皇が子だくさんになってしまうとさらなる混乱を招く可能性があったのです。
皇子の人数が少なければ、交互に皇位を継ぐことにより、混乱を比較的防ぐことができます。
そのため円融天皇や一条天皇はあまり子作りをしなかったのではないか……ということです。
一条天皇が彰子に対してどんな感情を抱いていたのか――そこは正直わかりにくい。
道長の目を意識して通ったこともあったでしょうし、幼くして入内させられた彰子へ同情がなかったとはいえないでしょう。
彰子の御殿へ行っていたときに火事が起きた際は、一条天皇と彰子の二人で逃げたこともありましたので、上辺だけの夫婦関係ではなかったとも思いますが。
散逸してしまったとされる一条天皇の日記が今後見つかれば、彰子との関係もはっきり浮かび上がってくるかもしれません。
一条天皇と道長の関係
一条天皇と藤原道長の関係はどうだったのか?
叔父であり、妻の父であり、大権力者であり。
なかなか難しいようで、天皇ですら気を遣わねばならない相手のように思いますが、一方的にやり込められていたわけではありません。
病気を理由に欠席を連絡した道長に対し、「いいから来なさい」と命じたことも一度や二度ではありません。
逆に、一条天皇が病気になった際は、道長が自分の体調不良を顧みず出仕したことも。
お互いに「この人とうまくやっていかなければダメだ」という気持ちがあったのではないでしょうか。
個人的な想像ですが、私的な事柄として『源氏物語』が一条天皇と道長の仲立ちになった可能性もあると考えています。
なぜなら『紫式部日記』に「源氏の物語を帝が女房に朗読させた」とする記述があり、道長も源氏物語のファンだったことから、二人が親しく語らうこともあったのでは?
『光る君へ』でも『源氏物語』が重要なつなぎ役となっていましたね。
ともかく道長や彰子と良い関係を維持していた一条天皇でしたが、寛弘八年(1011年)5月22日、重い病に倒れてしまいます。
彰子のもとへ渡ったのと同じ日だったとされ、このときまだ32歳。
当時の基準で若いとはいい切れないながら、まだ十分に働ける年齢です。
しかし病状が思わしくなく、心身共につらい状況では、譲位と次の皇太子を決めなければならない状況になります。
譲位については皇太子の居貞親王がいるので問題はありません。

三条天皇(居貞親王)/wikipediaより引用
しかし、その後の皇太子を誰にするのか、ハッキリさせていませんでした。
最愛の定子が残したけれど、後ろ盾の心もとない敦康親王か。
彰子との間に生まれ、後見に道長を持つ敦成親王か。
感情的には前者をとりたかったようで、一条天皇は『権記』の著者である藤原行成に「敦康をどうすべきか?」と諮問しています。
行成は天皇の秘書長ともいえる蔵人頭を務めていた人物であり、公私の事情をよく理解してくれる相手でもありました。
政情や故事、そして血統に関する点を述べ、行成は結論として
「次の皇太子は敦成親王殿下がよろしいでしょう」
と進言。これにて一条天皇の肚も決まったと思われます。
その後、一条天皇は位を譲る居貞親王に対し、敦康親王の処遇について頼みこみ、居貞親王もこれを引き受けています。
そして6月13日に譲位が成立すると、翌日にはさらに病状が悪化。
同月19日に出家した後、22日に崩御しました。
大変な愛猫家
最後に、少し和やかな話題で〆ましょう。
天皇の個人的な人格についてはあまり浮き上がってこないことが多いですけれども、一条天皇には随一と言っても過言ではない特徴があります。
大変な愛猫家だったのです。
遡ること長保元年(999年)、内裏で生まれた猫のために産養の儀式を執り行い、人間の乳母をつけたという話があるのです。
さらにこの猫はその後「命婦のおとど(おもと)」と名付けられ、位階を与えられていました。
「命婦」は、従五位下より上の位階をもつ女性なので、雌猫だったのでしょう。世話係として”馬の命婦”という女房までつけられていました。
この猫は『枕草子』の「上にさぶらふ御猫は」という段にも登場します。
命婦のおとどが縁側で寝ていたのを、馬の命婦が「室内へ入りなさい」と言っても入らないので、同じく宮中で飼われていた翁丸という犬をけしかけてしまいました。
これを見た一条天皇が激怒し、
「翁丸は犬島へ流してしまえ!」
と命じたことが記されているのです。
高祖父の宇多天皇も大の猫好きだったので、隔世遺伝のようなものなのでしょうか。

宇多天皇/wikipediaより引用
宇多天皇が可愛がっていたのは真っ黒な猫でしたが、命婦のおとどは毛色についての記録がなく、少々気になるところです。
一条天皇の日記は現存していないのですが、もしかしたら散逸した中に記述があったかもしれません。
大河ドラマのテーマとなった時代や人物については、研究が進みやすく新発見が報じられるケースも多々あります。
一条天皇の日記もそうなると良いですね。
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【参考】
国史大辞典
倉本一宏/日本歴史学会『一条天皇(人物叢書)』(→amazon)
ほか








