主役の藤原道長を筆頭に、藤原公任、藤原斉信、藤原行成らが若者らしい野望を語り、時には女性談義に花を咲かせていますが、清少納言との絡みで俄然注目されるのが藤原斉信(ただのぶ)です。
お笑い芸人はんにゃの金田哲さんが演じるこの斉信。
ドラマでも匂わされていたように、清少納言を口説こうとします。
それ以前には、花山天皇に入内した妹の藤原忯子に出世の口利きを頼むなど、なんだかロクデナシな一面ばかりが目立っていましたよね。
しかし、史実面での評価は決して悪いものばかりではありません。
和歌や漢詩などの文化的才能だけでなく容姿も優れていたとされ、さらには道隆から道長へ続く権力の移譲をうまく乗り切る政治家としての能力も兼ね備えていました。
いったい藤原斉信とはどんな人物だったのか?
長元8年3月23日(1035年5月3日)はその命日。
本記事でその生涯を振り返ってみましょう。
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清少納言との関係は?
藤原斉信は康保四年(967年)、藤原為光の次男として生まれました。
道長の父である藤原兼家と為光は兄弟ですので、斉信と道長は従兄弟同士なんですね。
斉信の妹・藤原忯子が花山天皇のもとへ入内していたぐらいですから血筋は文句なし。
他ならぬ父の為光が大納言や太政大臣を務め、その子である斉信も恩恵を受けて昇進していきました。
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正暦三年(992年)には蔵人頭になれるチャンスもあったのですが、このときは源俊賢(としかた)が就いています。俊賢は、道長の妻・源明子の兄ですね。
斉信が蔵人頭になったのは正暦五年(994年)のこと。
このあたりで職務上に加えていくらかの意図もあったのか、ときの中宮・藤原定子のもとへよく出入りし、清少納言など女房たちとの交流もありました。
そのため『枕草子』にもたびたび登場しています。
斉信としては周りの評価も高く自信もあり、清少納言に言い寄ったこともありました。
しかし、清少納言は突っぱねています。
褒めていた描写もあるのですけれども、清少納言は自分の容姿を気にしていたようなので、そのへんが理由なのかもしれません。
当人たちが良くても、他者から見て不釣り合いだと見なされればあれこれ噂になったり、嫌がらせをされることもあるので、それを疎んじたのでしょうかね。
また、清少納言は当時すでに最初の夫・橘則光と離婚しており、則光は斉信の部下のような立ち位置にありました。
となると、外から見て「清少納言がより身分が上で美形な斉信に鞍替えした」と見られかねません。
それでなくても漢才を隠しさなかった清少納言ですから、恋愛がらみのツッコミどころが加わったとなれば、いかにも貴族社会の悪評の種になりそうです。
斉信を褒めている割に清少納言が積極的でないのは、そういった複数の要因が合わさってのことではないかと思われます。
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いずれにせよ藤原定子に仕える清少納言に近づき過ぎなかったのは結果オーライだったかもしれません。
というのも……。
長徳の変
長徳元年(995年)4月、定子の父である藤原道隆が亡くなりました。
すると藤原斉信は、中関白家(道隆の家系)から距離を置き、道長への接近を強めます。
それが功を奏します。
翌長徳二年(996年)に【長徳の変】が起きると、斉信は悪影響を受けるどころか、むしろ参議となって昇進するのです。
いったい長徳の変とは?
藤原道隆の息子たちである藤原伊周と藤原隆家が、花山法皇とその一派を相手に起こした殺傷事件であり、この一件を道長に突かれ、彼らは失脚へ追い込まれました。
伊周と隆家は流罪に処せられ、それを嘆いた二人の妹で姉の藤原定子は出家という事態に陥ってしまうのです。
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中関白家にとっては非常事態。
しかし、道長についていた斉信にとってはプラスに働き、その後も順調に昇進していきます。
この辺りの展開が『光る君へ』でどう描かれるか不明ですが、感情的な話を抜きにして、斉信は当時の貴族として最適な生存戦略を選択したと言えるでしょう。
道長との関係は、その後さらに強まってゆくのです。
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