個性は対照的で、今風に言えば陽キャの清少納言と、陰キャの紫式部といったところ。
実はそれ、二人の父親の段階からその傾向がありました。
紫式部の父・藤原為時が暗く、重たい個性であるのに対し、清原元輔はパーッと明るい!
大河ドラマ『光る君へ』では大森博史さんが演じますが、いったい清原元輔とはどんな人物だったのか?
清少納言とどんな関係を築いてきたのか?
振り返ってみましょう。
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賀茂祭のハゲ自虐トークで伝説を残す
清原元輔には、有名なお笑いエピソードがあります。
百人一首を紹介する子ども向け書籍にも出てくる有名なもので、ざっと以下にまとめました。
ある歳の賀茂祭でのこと。
清原元輔は奉幣使を務めていた。
そのときうっかり落馬したうえに、冠が滑り落ち、見事な禿げ頭が露出してしまった!
当時、頭がモロ出しになることは「露頂」(ろちょう)と呼ばれ、現代人ならば下着がモロ出しになるようなもの。
もっと具体的に例えるなら、イベント会場でスーツが脱げて下着が出た上に、それがド派手な色と柄だったような状況でしょうか。
「ちょ、待ってくださいよ!」
元輔は、冠を被り直すこともなく、脱げてしまった先例を引きながら、見物の車の前でおもしろトークを繰り広げた!
無茶苦茶おもしろいおっちゃんとして、すっかり話題となったとさ。
いかがでしょうか?
この話は当時から相当ウケがよかったようで、だからこそ後世にまで伝わっています。
しかも娘の清少納言が見たら「親父マジか! 超ウケるんですけど!」と笑い転げる姿が想像できてしまう。
これがもし、人の目を気にするネガティブな紫式部だったら「父上、恥ずかしすぎ。もう嫌……」と、とことん凹んでしまいそうな話であります。
清少納言も、紫式部も、共に受領となった父を持つ、そこまで身分が高くない貴族の娘であるのは一致。
しかし、父のキャラクター性は正反対だったのです。
父と娘でケラケラ笑い合う清少納言と、父から「お前が男ならいいのにな」と言われてしまう紫式部。
二人のキャラがまるで違っているのも不思議ではない話でしょう。
※以下は清少納言の関連記事となります
『光る君へ』清少納言は史実でも陽キャだった?結婚歴や枕草子に注目
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明るく陽気な中流貴族
清原元輔は、延喜8年(908年)生まれ、平安時代中期の中流貴族です。
当時は、とにかく血統がものをいう時代であり、この階級に生まれたからには、政治的な意味はあまりない立場にあります。
紫式部の父である藤原為時の場合、先祖から続く不運によりおちぶれたと言えなくもありません。
一方で清原元輔は、そもそもの生まれがさしたるものではありません。
元輔はその生涯において、幾度か受領に任じられています。
受領は平安京から離れねばならないとはいえ、財産を得るチャンスが多い役職。
当時は「がめつい」だの「落ちているものならなんでも拾う」と陰口を叩かれつつ、いざ任じられたらラッキーだと思われる役職でした。
寛和2年(986年)には、なんと79歳の高齢で肥後守に任ぜられております。
コネを駆使して赴任し、永祚2年(990年)、赴任5年目で大往生を果たしております。
享年83。
当時からすれば驚異的な長寿です。
医療が未発達で、ストレスが溜まればそのまま早死にする人も少なくない当時でこの年齢まで生きた元輔は、きっと愉快でストレス発散の上手なおじいちゃんだったのでしょう。
孫のような娘、清少納言を溺愛する
娘の清少納言は、966年頃に生まれたと推察されております。
つまり、元輔が還暦を数年後に控えて生まれた娘ということ。まるで孫のような感覚で、それはもうかわいらしくて仕方なかったことでしょう。
「ああ、この子が男であればなあ」
そう父からぼやかれる紫式部。
孫のようだと可愛がってくる、愉快な父に溺愛される清少納言。娘が才知を見せたら、素直に喜んだことでしょう。
二人には、まるで異なる少女時代が見えてきます。
教養にしてもそこはうかがえます。
天才型和歌の達人である清原元輔に対し、藤原為時は漢籍を地道に読んで身につけた秀才型。
「天才型でキラキラした清少納言ね。でもさ、あんたさ、どうせじっくりと漢籍読んでないでしょ、ケアレスミスしてんだよ……」
そうフツフツとたぎる苛立ちが、紫式部にあってもおかしくないと思えてきます。
父と娘の関係性でみても、おもしろい二人です。
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