平安時代を代表する才女といえば、清少納言と紫式部でしょう。
個性は対照的で、今風に言えば陽キャの清少納言と、陰キャの紫式部といったところ。
実はそれ、二人の父親の段階からその傾向がありました。
紫式部の父・藤原為時が暗く、重たい個性であるのに対し、清原元輔はパーッと明るい!
大河ドラマ『光る君へ』では大森博史さんが演じていましたが、史実の清原元輔とは一体どんな人物だったのか?
清少納言とどんな関係を築いてきたのか?
正暦元年(990年)6月に没したとされる元輔の生涯を振り返ってみましょう。

清原元輔/wikipediaより引用
賀茂祭のハゲ自虐トークで伝説を残す
清原元輔には、有名なお笑いエピソードがあります。
百人一首を紹介する子ども向け書籍にも出てくる有名なもので、ざっと以下にまとめました。
ある歳の賀茂祭でのこと。
清原元輔は奉幣使を務めていた。
そのときうっかり落馬したうえに、冠が滑り落ち、見事な禿げ頭が露出してしまった!
当時、頭がモロ出しになることは「露頂」(ろちょう)と呼ばれ、現代人ならば下着がモロ出しになるようなもの。
もっと具体的に例えるなら、イベント会場でスーツが脱げて下着が出た上に、それがド派手な色と柄だったような状況でしょうか。
「ちょ、待ってくださいよ!」
元輔は、冠を被り直すこともなく、脱げてしまった先例を引きながら、見物の車の前でおもしろトークを繰り広げた!
無茶苦茶おもしろいおっちゃんとして、すっかり話題となったとさ。
いかがでしょうか?
この話は当時から相当ウケがよかったようで、だからこそ後世にまで伝わっています。
しかも娘の清少納言が見たら「親父マジか! 超ウケるんですけど!」と笑い転げる姿が想像できてしまう。
これがもし、人の目を気にするネガティブな紫式部だったら「父上、恥ずかしすぎ。もう嫌……」と、とことん凹んでしまいそうな話であります。
清少納言も、紫式部も、共に受領となった父を持つ、そこまで身分が高くない貴族の娘であるのは一致。
しかし、父のキャラクター性は正反対だったのです。
父と娘でケラケラ笑い合う清少納言と、父から「お前が男ならいいのにな」と言われてしまう紫式部。
二人のキャラがまるで違っているのも不思議ではない話でしょう。
明るく陽気な中流貴族
清原元輔は、延喜8年(908年)生まれ、平安時代中期の中流貴族です。
当時は、とにかく血統がものをいう時代であり、この階級に生まれたからには、政治的な意味はあまりない立場にあります。
紫式部の父である藤原為時の場合、先祖から続く不運によりおちぶれたと言えなくもありません。
一方で清原元輔は、そもそもの生まれがさしたるものではありません。
元輔はその生涯において、幾度か受領に任じられています。
受領は平安京から離れねばならないとはいえ、財産を得るチャンスが多い役職。

平安京復元模型/photo by 名古屋太郎 wikipediaより引用
当時は「がめつい」だの「落ちているものならなんでも拾う」と陰口を叩かれつつ、いざ任じられたらラッキーだと思われる役職でした。
寛和2年(986年)には、なんと79歳の高齢で肥後守に任ぜられております。
コネを駆使して赴任し、永祚2年(990年)、赴任5年目で大往生を果たしております。
享年83。
当時からすれば驚異的な長寿です。
医療が未発達で、ストレスが溜まればそのまま早死にする人も少なくない当時でこの年齢まで生きた元輔は、きっと愉快でストレス発散の上手なおじいちゃんだったのでしょう。
孫のような娘、清少納言を溺愛する
娘の清少納言は、966年頃に生まれたと推察されております。
つまり、元輔が還暦を数年後に控えて生まれた娘ということ。まるで孫のような感覚で、それはもうかわいらしくて仕方なかったことでしょう。
「ああ、この子が男であればなあ」
そう父からぼやかれる紫式部。
孫のようだと可愛がってくる、愉快な父に溺愛される清少納言。娘が才知を見せたら、素直に喜んだことでしょう。
二人には、まるで異なる少女時代が見えてきます。
教養にしてもそこはうかがえます。
天才型和歌の達人である清原元輔に対し、藤原為時は漢籍を地道に読んで身につけた秀才型。
「天才型でキラキラした清少納言ね。でもさ、あんたさ、どうせじっくりと漢籍読んでないでしょ、ケアレスミスしてんだよ……」
そうフツフツとたぎる苛立ちが、紫式部にあってもおかしくないと思えてきます。
父と娘の関係性でみても、おもしろい二人です。
当意即妙の天才型歌人
平安貴族の歪なところは、才能よりも血統が重視される点です。
清原元輔は政治家としてみれば、そこまで出世できません。自分より若い貴公子がグングン出世する様を見ているしかありません。
しかし歌人としては、天才型の素晴らしい人物といえます。
村上天皇の命令により選ばれた「梨壺の五人」に名を連ね、和歌の読解や編纂にあたりました。

村上天皇/wikipediaより引用
「三十六歌仙」、「百人一首」にも選ばれました。
依頼されて詠むことも多く、社交的な性格であったこともうかがえます。
百人一首42番をみてみましょう。
契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは
約束したじゃないか。二人で涙で濡れた袖をしぼりながら、あの末の松山を波が超えないように、二人の仲も変わらずにいようと。
これは彼女が心変わりし、失恋してしまった男性顧客のために詠んだ歌でそうです。
どことなくユーモラスで、情熱だけでなくウィットにも富んでいて、確かに依頼されるだろうと思える軽妙さがあります。
こんな歌をササっと詠まれたら、この天才にはかなわないと周囲は納得したことでしょう。
元輔の愛娘として、清少納言が世に出たことも、うなずける話です。
清少納言の仕えた藤原定子も、元輔の娘だとして期待した歌を残しています。
あの清少納言ですら「あの名を汚すまい」と歌を詠みたがらなかったというのですから、実に偉大な歌人です。
しかも元輔は、インスピレーションがビビビと降ってくる天才型ですから、即興で詠むところも魅力的でした。
冠が脱げてお笑いトークにした逸話といい、当意即妙の才能があるのでしょう。
そんな父の姿を見てきた清少納言もそれは受け継いでいますし、周囲も期待するはず。
藤原定子のサロンは、そんな明るく会話が弾む、リア充空間でした。
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陽キャだらけ、パリピが戯れているような、華やかな空気が漂っていたのです。
秀才型漢籍教養の人、為時は暗くて重い
さて、そんな清原元輔と清少納言の父と娘に対し、藤原為時と紫式部はどうか。
為時の有名な漢詩には、こうあります。
苦学寒夜、紅涙沾袖
苦学の寒夜、紅涙袖を沾(うる)おす
除目春朝、蒼天在眼
除目(じもく)の春朝、蒼天眼(まなこ)に在り
私は寒い夜でも、血の涙で袖を濡らしつつ、勉学に励んできました。
待望の除目を迎えた春の朝、そこで目にしたのは、青空だけだなんて(名前がないことを嘆いているという意味)。
これを読んだ一条天皇は泣き、食事もろくに食べられなくなり、やっと為時は越前守に任じられたという伝説の一節です。

一条天皇/wikipediaより引用
しかし、重い……。
受領にすら任じられず、金銭的にも苦しいうえに、芽が出ない恨みつらみが伝わってきます。
為時は確かに学識はあったものの、世渡りが下手で偏屈で「あいつ、空気読めないよな」と思われていたと伝わります。
そんな不器用さゆえに苦労しているのに……娘である紫式部にも、そう思ってしまうことがあっても無理のないところ。
為時は漢籍が得意です。
漢籍がいくらできても、やはり出世には直結しないうえに、なんだか蘊蓄ばかり言っていてウザいんじゃないかと思われるところもある。
たとえばお正月。平安貴族は中国由来の「屠蘇」を飲みます。『三国志』でおなじみの、伝説の名医である華佗由来とされます。
そういう蘊蓄をウダウダ新年早々語り、仲間同士で「我々は知っていますな!」と言い合うことがお約束でして。
本人たちはこれぞ文人のプライドだと言いたいところでしょうが、外部からすれば「なんかウゼエ」となりそうな話です。
漢籍をひけらかす女は不幸になるんじゃなかったの?
清少納言は、漢籍教養を軽やかに発揮したことで知られています。
『枕草子』にある定子とのこのやりとりは有名です。
ある雪の朝、定子がこう言います。
「香炉峰の雪はどう見るのかな?」
すると清少納言はすかさず簾を掲げました。
白居易の詩をふまえたウイットに富んだやりとりに、周囲は朗らかに笑った。

清少納言/wikipediaより引用
一方、紫式部は納得できない。
周囲から「女が漢字を読むと不幸になるよ」と散々言われてきたのです。隠し通さないとろくなことにならないぞ……そんな鬱屈を感じさせます。
たとえばこんな暗い話を『源氏物語』に書かずにはいられない。
「雨夜の品定め」です。
「式部丞の話」
俺がまだ学生の頃の話っすね。教授の娘とつきあっていたですけど。すげー頭良くて。付き合っている時でも漢文のお話ばっかり。手紙だってひらがなゼロで漢文っすからね。
ま、おかげで俺の漢文スキルもアップしたんですけどね。
でもわっかんねーかな。そういう女ってウザいっていうかさ。
で、あるとき立ち寄ったら、なんか直接会えないんですよ。なんか俺の浮気にイラついてんのかな、じゃあ別れるにはいいかなと。
すると彼女が早口で、風邪のせいでニンニクを服用したっていうんですね。なので口が臭いから会えないって。それを漢文で言うんですよ。そしたらくせーのなんのって。
マジすか。そう思っていたらニオイがなくなったら会いにきてくださいって言うんです。だもんで、マナーとして和歌を返そうとしたら、なんか畳み掛けるように返してくるし。
できすぎる女っていうのもどうしたもんかなー、って思うワケ。
これを聞いた他の貴公子たちは「ありえねーよ!」とツッコんだのでした。
これには含意があります。
当時のニンニクは「蒜」(ひる)と言います。毎晩会っているなら、ヒルだろうと恥ずかしいわけもない。
ヒルのニオイくらいで会えないなら、あなたの心が変わっているんでしょう?
そう遠回しに非難しているとも解釈できます。
ニンニクは、中国料理に欠かせない香辛料ですが、和食ではあまり使いません。
その一因として、禁葷食のタブーも考えられます。
禅宗の寺院には「不許葷酒入山門」(葷酒の山門に入るを許さず)と刻んだ石碑が置かれていることがあります。
酒および硫化アリルを含む野菜であるニンニクなど、五葷(ごうん)と呼ばれる野菜は、修行の妨げになるため寺に入れないという意味です。
仏教による食のタブーが厳しくなっていくと、こうした野菜は寺の外でも避けられるようになっていきます。
そのため、肉食ともども和食ではあまり取り入れられなくなったのでしょう。
こうしたことを踏まえていくと、ニンニク女はどれだけ空気を読めないか。ありえねーと笑い物となる存在であるか。
偉そうに漢文を読む上に、ニンニクに重ねて心変わりをネチネチと責めてくる。
でも今時ニンニクを食べている時点でおかしいって気付けないのかな?
そう、これでもかと言わんばかりに、漢籍女をコケにするようなおそろしいくだりです。
しかも、繰り返しますが、これを書いているのはリアル漢籍女である紫式部です。あまりに自虐的ではありませんか。
紫式部は、リア充清少納言が許せない
藤原道長のスカウトにより彰子サロンに出仕したあと、紫式部は鬱状態になりました。

『紫式部日記絵巻』の藤原道長/wikipediaより引用
なまじ『源氏物語』を読んだ一条天皇が「この作者は教養があるなあ」と感心したばかりに、
「日本紀の御局」=“教養マウンティング女”
というありがたくないニックネームで呼ばれてしまう始末。
「もう無理……“一”という文字すら読めないフリをするんだ……」
そう追い詰められた紫式部にとって、漢籍教養をひけらかしつつ、リア充ぶっている清少納言へ嫉妬が沸いてもおかしくはないのでしょう。
清少納言の仕えた定子と、紫式部の仕えた彰子では、性格的にも異なりました。
定子サロンの軽やかな受け答えがないと、当時を知るものは愚痴をこぼします。
「あーあ、清少納言は軽やかな受け返しができたのになあ」
そうぼやかれ、紫式部がどれほど苛立ったことか。
父から「お前が男なら」と嘆かれた。
周囲からの「漢文女、まじウゼエ」とうっすらと思われるチクチク状態を察知してしまう紫式部。
その暗い気持ちは想像するとなかなか辛いものがあります。
「漢文でリア充気取りする清少納言って、本当にムカつくわ!」と炸裂してもおかしくはない状態です。
★
『光る君へ』では、フィクションならではのおもしろいアプローチをしていました。
定子に仕え始めたころ、清少納言の父である清原元輔は没していました。そんな父を出すために、第6回ではドラマオリジナルイベントである「漢詩の会」を開催したのです。
そこで清原元輔も出すことで、紫式部と清少納言の家庭環境の違いが見られました。
陽キャな父と娘は、のびのびと教養を披露できる。
一方で、藤原為時とまひろは、初回からずっと暗く、噛み合わない父娘関係を見せていました。
それでもまひろは、その後、娘の大弐三位も間に入って為時との親子仲が落ち着き、清少納言とも戦友かの如く打ち解け、宮中での思い出を語るまでの間柄に。
「そんな展開もあるんだな」とフィクションだからこその楽しさを私達は見ることができました。
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【参考文献】
繁田信一『紫式部の父親たち』(→amazon)
井上幸治『平安貴族の仕事と昇進』(→amazon)
橋本義彦『平安貴族』(→amazon)
他





