平安貴族の国司(受領)とは

画像はイメージです(駒競行幸絵巻より)/wikipediaより引用

飛鳥・奈良・平安 光る君へ

なぜ平安貴族は国司になると経済的にウマ味があるのか?受領は倒るる所に土を掴め

大河ドラマ『光る君へ』で佐々木蔵之介さん演じる藤原宣孝

国司になって九州へ赴任していましたが、第18回放送で帰京し、藤原為時の邸を訪れた姿を見て、何やら不思議に思いませんでしたか?

宋からの珍しい酒を為時らと味わい、高級化粧品の紅をまひろにプレゼンとするなど、やたらと大盤振る舞いしている。

その姿はまるで成金のようで、いったい何があったのか?

と疑問に感じられた視聴者は少なくないでしょう。

国司とは、本来、地方国の徴税などを司るお役人であると歴史の授業では習います。

しかし現実はそうではありませんでした。

現地へ赴く国司は受領(ずりょう)と呼ばれ、当時の貴族社会では、中級貴族に与えられた地方搾取システムの使いっ走りとも言える存在だったのです。

「受領は倒るる所に土を掴め」なんて言葉も伝えられるほどで、紫式部は、受領の妻であり、受領の娘でもあり……。

哀しき中級貴族の現実を突きつけられてきた女性とも言える。

大河ドラマ『光る君へ』の中盤でまひろ(紫式部)が直面することになる、中級貴族と国司(受領)について、当時の現状を振り返ってみましょう。

 

紫式部がネガティブなワケ

紫式部の父・藤原為時は、中級貴族です。

得意の漢文により栄達を夢見ていたものの、上級貴族の陰謀により、出世コースから弾き出されてしまった不遇の人物でした。

その娘である紫式部も、当時の結婚適齢期である10代後半から20代にかけて、地方で過ごすことになるという負け組そのもの。

晩婚の28でやっと藤原宣孝と結婚するものの、相手は20歳ほど上であり、かつ他の妻もいます。

どう考えても恋愛結婚ではなく、妥協の産物というところでしょうか。

一女・大弐三位を授かるも、夫は2年半の結婚生活のあと、亡くなってしまいました。

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いくら才能があるといっても、どうにもならない……大河ドラマのヒロインにしては、なかなか暗い境遇です。

しかも紫式部の場合は彼女自身のせいではありません。

当時の中級以下の貴族とは、ガチャに外れたようなもの。

上級貴族からはいいように利用にされるわ。

民衆からは「あのケチでどうしようもない汚職連中ね」とヒソヒソ言われるわ。

そんな負け組中級貴族の娘が、宮中出仕という栄華の道へ入ったものの、紫式部はネガティブ思考につっこんでいきました。

「ああ、宮仕だなんて……昔の友人からすれば、勘違いしている調子こいた女って思われちゃう……」

「なまじ知識を披露すれば、きっとマウンティング勘違い女と思われる。漢字は“一”だって読めないフリをしなきゃ……」

先天的に暗い性格も影響したのでしょう。

しかし、理由はそれだけではありません。繰り返しますが、父・藤原為時の立場をふまえればそうならざるを得なかったのです。

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上流貴族に翻弄される、中級以下の悲哀

『光る君へ』において紫式部と藤原道長が一時は結ばれ、そしてソウルメイトになるというのは、むろんドラマでの設定です。

こうしたやや強引な関係性は、大河ドラマのお約束。

ただし、これを紫式部の父である藤原為時が知ったら、暗い顔になるかもしれません。

中級貴族である藤原為時には、一時、栄光を掴みかけた時期がありました。

ドラマでも描かれていたように、永観2年(984年)に円融天皇が譲位すると、師貞親王が花山天皇として即位。

この花山天皇の側近であった為時も、これにより出世できたのです。

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嗚呼、ついにここまで到達できた。あの優秀な娘が男であればなあ、安泰だったのになあ!

そう浮かれていたかもしれませんが、花山天皇即位の背後には舌打ちする人びともいました。

藤原兼家です。

兼家は娘の藤原詮子を円融天皇の女御とし、懐仁親王を授かっていました。

還暦が迫りつつある中、兼家としては一刻も早く、この皇子を即位させ、外戚として権勢を振るいたい。そうなると、まだ若い花山天皇が邪魔。

そこで、子の道兼による謀略を実行に移します。

精神的に不安定な花山天皇を出家させ、強引にまだ幼い一条天皇へと譲位させたのです(【寛和の変】)。

ここから先は、藤原兼家とその一門による、花山天皇の側近排除ラッシュとなります。

藤原為時も当然のごとく免官されました。

結婚適齢期に突入した紫式部は、父のそんな転落人生を見ていたのです。

この兼家の一番下の男子が道長ですので、為時からすれば「娘がなんでそんな人とソウルメイトに……」と困惑しても無理はないところです。

実際ドラマでは、道長がお姫様抱っこで娘を運んでくる姿を見て、言葉を失くしていましたよね。

しかし、そんな為時にも運が回ってきます。

長徳2年(996年)、ようやく淡路守に任官。

わずか3日後には、さらに待遇のいい越前守に栄転となったのです。

ようやく運が向いてきて、経済力も得ることができる。紫式部にも縁談を見つけられる。

とはいえ、紫式部本人はそんな父の役職復帰をどう思っていたか。

受領か……確かにお金は手に入るけれども、その過程がどうにもね……。

そうため息をついていてもおかしくない――それが受領という職でした。

では、一体なぜそんな風に思ってしまうのか?

受領(国司)とは何なの?

 

受領は倒るる所に土を掴め!

平安時代の受領につきものの言葉として、こんなフレーズがあります。

受領は倒るる所に土を掴め

【意訳】どんな時でも私服を肥そう!

『今昔物語集』からの由来で、こんな話です。

信濃守としての任期を終えた藤原陳忠は、京へ向かう途中、峠で馬ごと橋から落ちました。

随行者があわてふためいていると、こう聞こえてきます。

「おーい、籠に縄をつけて下せ」

よかった、生きている!

そう言われるがままにして引き上げると、何かがおかしい。

ヒラタケが満載された籠があがってきた。

もう一度籠を下ろすと、今度はやっと陳忠が乗っています。しかも、片手にはヒラタケを手にして……。

この人は、いったい何を考えているんだ?

随行者がそうしらけきっていると、こう言いました。

「いやあ、落ちる途中で木に引っかかったんだけどね。見てみるとすぐそばにヒラタケがどっさりあるわけよ。こんなお宝を見逃すってありえなくない? だからさ、いっぱいとったワケ!」

ここで陳忠は「受領は倒るるところに土をも掴め」というフレーズを引いたのです。

受領ってドケチで強欲だな!

と、批判されているわけですね。

受領とはそう憎まれ、嫌われる存在だったのでしたが、受領にだって言い分はあるでしょう。

そうやってでも収入を得ないと、やっていけないんだってば!という事情もあったのです。

それはなぜか?

受領には徴税権があり、メリットはそこ。

当時の貴族にとって、地方は野蛮で行きたくない場所です。それでも向かうとすれば、金儲けというメリットでもなければやってられない。

税収で儲けることが目的で、地方に赴任する――現代人の感覚からすればとんでもない連中だと思えてきます。

しかし、当時もそうであればこそ『今昔物語』でネタにされたのでしょう。

そんな受領は、下々の者から「あいつら税金で金儲けか!」と舌打ちされるだけの存在でもありません。

皇族や上級貴族から「民から搾りとった金があるんでしょ? ちょっとそれを使ってくれない?」と、生活費を賄うように迫られたり、贈賄を要求されるのです。

そんな調子でいいのかよ……というと、どうやら当時は贈収賄が悪いという確固たる道徳観念が通用していないようで、なんとなく嫌だけど、どうしようもなかった。

受領といえば強欲。金のために地方に行くしょうもない連中。ともかく、そんなポジションだったのです。

ただし、悪どく略奪しているだけでもなく、インフラ整備や揉め事の解決など、行政に忙殺されていて大変ではありました。

仕事が忙しいだけならまだマシ。なまじ金が手にしやすいだけに、暴力沙汰や殺人の標的になることすらあります。

なにせ、上級貴族からすれば金を持った虫ケラみたいな存在です。

時代劇の悪代官や、ヤクザ映画の悪徳商人などを連想した方もいらっしゃるかもしれませんが、案外そう遠くないようにも思えます。

ただし、江戸時代の代官はむしろ真面目な人物が多かったので、受領と一緒にされたら苦い顔をしそうではありますが……。

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