万寿2年8月3日(1025年8月28日)は大弐三位(だいにのさんみ)が親仁親王(後の後冷泉天皇)の乳母に任命された日です。
大弐三位ではなく「藤原賢子」と記したほうがピンと来る方も多いでしょうか。
そう、大河ドラマ『光る君へ』にも登場していた紫式部(まひろ)の娘であり、藤原道長の隠し子でしたね。
むろん史実は藤原宣孝が父親で間違いないのでしょうが、では大弐三位は
貴族社会で一体どんな活躍をしたのか? 実際はどんな恋をしたのか?
あの藤原道兼の息子と結婚すると言ったら、ドラマの視聴者は驚かれるかもしれません。
生涯を振り返ってみましょう。
父は宣孝 祖父は為時
大弐三位は長保元年(999年)頃、紫式部の娘として生まれました。
父親は公家の藤原宣孝。
大河ドラマ『光る君へ』では佐々木蔵之介さんが演じる、ちょっとノリは軽いけどよく気がつく、女性にはモテそうなタイプでしたね。

藤原宣孝(栗原信充画)/wikipediaより引用
劇中の様子からもわかるように、史実でも2人はかなりの年齢差。
そのため、大弐三位が生まれてすぐの長保三年(1001年)に宣孝は亡くなってしまい、きょうだいはいなかったと思われます。
それから5年後の寛弘二年(1006年)、母の紫式部が藤原彰子のもとへ出仕したため、大弐三位は祖父・藤原為時の手元で育ちました。
宮仕えしたからといって実家に戻れないわけでもなく、母子の交流が途絶えたわけではないはず。
しかし、寛弘五年(1008年)に彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を産んだ頃、宮中のことなどは『紫式部日記』に記されていますが、娘の大弐三位については特に記載はありません。
この辺、ドラマでどんな風に描かれるか楽しみですね。爺爺になった岸谷為時は、孫に漢文を教えたりするのか……。
大弐三位には、他にも「藤三位(とうのさんみ)」とか「弁の乳母」、あるいは「越後の弁」などの呼び名があります。
「越後の弁」というのは祖父・為時の官職だった越後守からとられた呼び名ですね。
恋のお相手は錚々たるメンツ
大弐三位が頭脳明晰だったのは間違いないようで、彼女も長和六年(1017年)頃、母の跡を継ぐような形で彰子のもとへ出仕します。
その頃には母の傑作『源氏物語』が宮中や公家の人々に広まっていたようですので、大弐三位に向けられる視線もかなり熱いものだったでしょう。
普通ならば、緊張して胃が痛くなるか、あるいは親の七光りを利用して威張り散らすか……。
しかし大弐三位はそのどちらでもなく、しっかり仕事をしつつ恋愛も楽しむ、公私共に充実した生活を送るのです。
この辺、紫式部とはかなり違うタイプのように見えますね。

画像はイメージです(紫式部日記絵巻/wikipediaより引用)
大弐三位の恋のお相手だったとされる人は、
など、錚々たるメンツが並びます。
特に定頼との間には和歌を絡めたエピソードが複数伝わっています。
定頼は藤原公任の息子で、和泉式部の娘である小式部内侍をからかって見事な歌で撃退された人。
そちらの逸話でご記憶の方も多いかもしれませんが、今回は大弐三位との話を見ておきましょう。
公任の息子・定頼に返した嫉妬の歌
あるとき定頼が大弐三位へこんな歌を贈ってきました。
見ぬ人に よそへて見つる 梅の花 散りなむ後の なぐさめぞなき
【意訳】あなたが会ってくれないので、慰めに梅の花を見ていました。この花が散ってしまった後は、何を慰めにしたらいいのでしょう
対する大弐三位の返歌は次の通りです。
春ごとに 心をしむる 花の枝(え)に 誰がなほざりの 袖か触れつる
【意訳】春が来るたびに心を占めてきたこの梅の枝に、一体誰が残り香をつけたのでしょうね
「あなたが他の女性に会っていたことは知っていますよ。だからお会いしたくないのです」というわけです。
当時の貴族は一夫多妻が当然で、咎められるようなものでもないのですが、それでも定頼は間が悪かった。
「あなたのことが一番好きなのにつれないね」とか言っておきながら、「実は他の女性とも会ってました」では、誰だって気分が悪くなって当然です。
似たような経緯で機嫌を損ねた女性として有名なのは『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母(夫は藤原兼家)でしょうか。
とはいえ、愛しているからこそ嫉妬や拗ねたりするわけで……。
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道長の長男・頼通とは良き主従関係を?
大弐三位から定頼へ宛てた歌をもう一首、見てみましょう。
つらからむ 方こそあらめ 君ならで 誰にか見せむ 白菊の花
【意訳】あなたの態度はつらいですが、あなた以外にこの白菊の花を見せようとは思いません
これは紀友則の和歌
君ならで 誰にか見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る
の本歌取り。
今なお大弐三位の情熱が伝わってくるようで熱いですねー。
彼女の恋愛観については明確なことはわからないものの、少々、私見を挟ませていただきます。
大弐三位は、主人である彰子の弟・藤原頼通と親密だったようなエピソードがあります。
あるとき頼通が自宅である高陽院の梅を一枝贈りました。
大弐三位はとても喜び、お礼の歌を贈ります。
いとどしく 春のこころの そらなるに また花の香を 身にぞしめつる
【意訳】ただでさえ春はうわの空になるものですのに、こんな素晴らしい梅の花をいただいたので、香りに酔いしれてしまいましたわ
これに対し頼通は次のように返歌をしました。
そらならば たづねきなまし 梅の花 まだ身にしまぬ にほひとぞみる
【意訳】ならばこちらへ訪ねていらっしゃい。まだ梅の香りがしっかりついていないようですから
恋仲であれば女性が男性のもとを訪ねるというのはあまりないことなので、二人は仲の良い主従関係だったのではないでしょうか?
そして、こういうやり取りができる程の間柄であれば、頼通も自分の正室・隆姫女王(村上天皇の孫)や夫婦関係の話などもできたのでは?

画像はイメージです(『源氏物語絵巻』/wikipediaより引用)
頼通は当時の公家にしては珍しく一本気な愛妻家で、三条天皇から皇女を降嫁させたいという話があったときも、
「妻が悲しみますので」
と断ったことがあるほどです。
頼通の態度を見て、大弐三位が”一途な男性”を理想としていたとすれば、定頼への拗ね方も合点がいきますね。
しかし大弐三位は、『光る君へ』の視聴者からしてみれば、なかなか驚きの相手と結婚をします。
藤原兼隆――そう、この兼隆とは、藤原道兼の息子なのです。
結婚相手はあの道兼の息子?
大弐三位の結婚相手は、藤原道兼の子である藤原兼隆です。
ドラマではまひろ(紫式部)の母ちやはを背後から刺殺し、仇とも言える憎き相手の藤原道兼。
そんな男の息子を、自分の娘の夫にするなんて――なかなか辛い展開ですが、殺害事件はあくまでドラマに限った創作話です。
史実の兼隆に対し、紫式部が嫌悪感を抱いたかどうか。
紫式部の没年も不明なため何とも言えませんが、大弐三位は娘(後に源良宗室)を産むと、その後、兼隆と離婚します。
こちらの理由も定かではないながら、兼隆は従者などに対する暴力事件をたびたび起こしていたため、連れ添う気にならなかったのかもしれません。
ドラマでの藤原道兼は、父・藤原兼家の権力欲によって性格を歪まされ、突発的な暴力沙汰を起こしていたので、兼隆にも受け継がれた……となると、なんだか辛い話ですね。
大弐三位は、その後も藤原彰子に仕え続けました。

『紫式部日記絵巻』より/wikipediaより引用
そして万寿二年(1025年)、晴れがましいお役目を与えられます。
彰子の孫にあたる親仁親王(ちかひと/のちの後冷泉天皇)が誕生したとき、その乳母を任されたのです。
いわずもがな、乳母は子供の成長に最も影響を及ぼす重要な役割。
親仁親王の母である藤原嬉子は早くに亡くなっており、また嬉子は彰子の末妹でもありましたので、彰子の女房の中から最も乳母にふさわしい者として、大弐三位が選ばれたのでしょう。
彰子と嬉子の間で、いくらかは相談したかもしれませんね。
大弐三位の両親は既に他界し、母方の祖父も出家していましたので、後ろ盾はほぼない状態。
ですから、これは間違いなく大弐三位本人の才覚や人柄が評価された結果であるはずです。
80歳近くで内裏後番歌合に参加
長暦元年(1037年)ごろ、大弐三位は高階成章という貴族と再婚しました。
前年には親仁親王へ親王宣下が行われ、長暦元年には皇太子に立てられていましたので、「これで乳母の仕事は一段落」と思ったのでしょうか。
子育て中も含めて、大弐三位は多くの歌合にも参加していました。
長元元年(1028年)上東門院菊合
永承四年(1049年)内裏歌合
永承五年(1050年)祐子内親王家歌合
承暦二年(1078年)内裏後番歌合
最後の内裏後番歌合のときには80歳近くになっていたはずですが、息子・高階為家の代詠を務めたそうですので、さぞ矍鑠(かくしゃく)とした老婦人だったのでしょう。
現代人からしてもまぶしいですね。
時系列が少々前後しますが、天喜二年(1054年)には従三位に上っています。
「大弐三位」の呼び名は、夫の官名と本人の官位によるものだったのです。
「大弐」は大宰府の次官に当たる職で、夫に従い筑紫へ行ったことがあったようで、その頃は既に50代後半ほどの年齢ですから、やはり健康な人だったのでしょう。
承暦二年より後の活動については判然としません。
息子の為家が永保二年(1082年)に「母の所労のため」として石清水八幡宮の祭りの役目を断ったとされているので、このあたりで大弐三位も亡くなったのではないかと考えられています。
よほど身分が高くなければ女性の生没年や前後事情については記録されにくいので、致し方ないところです。
最後に母の日記『紫式部日記』から見える、紫式部と大弐三位の関係を探ってみましょう。
『紫式部日記』
『紫式部日記』では、日付不明の部分に消息体(手紙)の文章があり「その宛先は大弐三位だったのではないか?」という見方があります。
貴族の日記とは、前例や日常の振る舞いなどを子孫へ伝えていく役割が大きい。
紫式部が彰子に仕え始めたのは、大弐三位を産んだ後のことですから、
「いずれ娘が成長した後に渡そう」
と考えたからこそ、彰子の出産前夜から日記を書き始めた可能性も考えられます。
日記の中に、少々説教めいた部分や他の女房に対する人物評があるのも、娘への教訓と考えるとより自然に感じられたりもします。
紫式部の性格から察するに、自分のプライベートなことを日記に綴ったりしなさそうですしね。
「大弐三位が母の教えを記憶し、後世に伝えるべきだと考えて残した」という方が、ありえるのではないでしょうか。

紫式部(画:土佐光起)/wikipediaより引用
本記事のラストは、百人一首に採られている歌で〆ましょう。
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
【意訳】有馬山のそばにある猪名の笹原では、風が吹くとそよそよと音を立てるそうですね。そう、そうよ、私があなたを忘れるものですか
交際していた男性がしばらく疎遠になり、バツが悪かったのか
「あなたの気持ちがわからなくて不安になってしまいました」
というような手紙を送ってきたところ、大弐三位はこの歌を送って言い返したとされています。
”風”は風の便り、笹は大弐三位の心境の暗喩でしょうかね。
言外に「忘れていたのはあなたのほうじゃないの?」と咎めている雰囲気もあります。
相手も不明ですし、その後、男性とよりを戻したのかどうかもわかりませんが、じっと待っているだけの女性ではなかったのだろうな……という気がしますね。
大河ドラマの主人公になった人やその周辺人物については、大河ドラマの年に新たな史料などが見つかることが多々あります。
紫式部に関する新発見があれば、母子仲や大弐三位の素顔もさらに詳しくわかるかもしれませんね。
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【参考】
国史大辞典
『紫式部集―付 大弐三位集・藤原惟規集 (岩波文庫)』(→amazon)
『新訳 後拾遺和歌集』(→amazon)
ほか






