横山光輝『三国志』ならば読んだことがあるけど『水滸伝』って何?
昨今、そんな存在になりつつある『水滸伝』、本記事をご覧いただいている皆さまであればご存知でしょうか。
ただ、日本で全く存在感がないかといえばそうでもなく、2026年には『北方謙三版水滸伝』がWOWWOWで配信予定です。
「酔虎伝」という居酒屋もあれば、『幻想水滸伝』もある。馴染みがあるようで、遠いような、そんな立ち位置にあるようです。
『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』と共に「中国四大奇書」の一つに数えられ、実は日本でも江戸時代以来、長いこと圧倒的な人気を保ち続け、四大奇書の中でもダントツの人気を誇ってきました。
なんせ大河ドラマ『べらぼう』の主役である蔦屋重三郎も、「これなら確実に売れる」と翻案出版を手掛けている程でした。
曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』へと続く、非常に重要な存在だとも言えます。
では、それは一体どんな存在だったのか?
ドラマの終盤にかけて存在感を増してくるであろう『水滸伝』が日本で広まりブームになるまでの歴史を振り返ってみましょう。
日本に印刷物が伝わるまで
2024年大河ドラマ『光る君へ』では、紙に筆で文字を書き、一冊ずつ製本して広まってゆく様が描かれていました。
当時は紙そのものが高級品。
「一条天皇に読ませたい」という藤原道長の意向なしには『源氏物語』が成立しなかったことがプロットで重要な役割を果たしていたものです。
最終回に登場した藤原孝標女(劇中では“ちぐさ”)も特徴的でした。
彼女は少女時代を上総国で過ごしましたが、東国では『源氏物語』を入手できず、仏像に祈ってまでなんとか手にしたいと願っていたものです。
物語を読むことができたのは、京都にいる少数の貴族だけだったことがわかります。
では当時は印刷技術がなかったのか?というと、そうとも言い切れません。
8世紀の奈良時代、世界最古級の印刷物である「百万塔陀羅尼」が残されています。

百万塔と陀羅尼/wikipediaより引用
百万基の小さな木製塔に保管するための陀羅尼であり、貴重な仏教の教えを大量に生み出すため、印刷技術を使っていたことがわかります。
『源氏物語』をはじめとする「物語」はあくまで語り伝え、書き写すものであり、印刷して残すまでの意義が見出されていなかったんですね。これは隣国の唐でもそうでした。
時代がくだってゆくと、仏教にとどまらず様々な思想の経典が印刷されるようになります。
宋代は科挙制度が進化してゆき、勉学の必要性とそれに伴う印刷物の需要が高まっていました。
試験対策のためにも儒教教典の印刷が始まります。
実は藤原道長の蔵書の中にはこうした印刷物の漢籍もありました。
宋の時代となると、日本と中国の関係は貿易が主たるものとなりました。
【唐物】(からもの)と称される輸入品は【威信材】、いわばステータスシンボルであり、道長が教養を得るために活用したかどうかは、また別の問題です。
貴族にとって【唐物】はステータスシンボルに過ぎないものかもしれませんが、最新の学問を隣国から学び、身につけたいと願う者はいます。
禅僧たちです。
彼らは海を超えて中国に渡り、さまざまな書物を身につけ、帰国しました。
仏典だけでなく様々な漢籍を求め、知識を蓄えてゆき、その中には『孫子』のような兵法書も含まれています。

孫子の兵法書/photo by vlasta2 wikipediaより引用
戦国時代、大名の子息がしばしば禅僧を師として学問を学んだ背景には、そんな事情がありました。
武田信玄の「風林火山」の旗印は、学識豊かな禅僧に学問を学び、『孫子』を読みこなしたことをアピールする証でもあります。
今川義元に仕えた太原雪斎のように、兵法を活用し、「軍師」として活躍する僧侶まで出てきます。
これは日本独自の不可思議な現象でした。
戦国時代末期には、日本に【活版印刷】が伝わります。
キリスト教宣教師や天正遣欧少年使節により伝えられ、【朝鮮出兵】でもこの技術を得たとされており、徳川家康が用いたという活字も現在まで残されているほど。
このころまでの印刷とは、学問普及のために用いられる崇高なものという意識が伝わってくる。
しかし、それだけでは『べらぼう』の世界の中心にある、娯楽エンタメとしての印刷文化は埋められません。
学問のために使う貴重な印刷を、娯楽のために使うには、さらなる時代の変化が必要だった。
そして、その大きな波は、隣国から押し寄せてきました。
元代:白話エンタメの誕生
隣の中国に目を移し、時間を少し遡りまして。
宋のあと、モンゴルから南下した元が中国大陸を支配しました。
元代は科挙が廃止され、儒教の地位が低下。
当時の身分を示す言葉として「九儒十丐(きゅうじゅじゅっかい)」があります。
最低の階層である物乞いより、儒者は一つ上。要するに下から二番目という意味です。漢人の知識が重視されない時代の到来を意味します。
こうなると知識のある漢人はそれまでとは違う生き方を模索せねばなりません。
高級官僚も漢人以外が任命されます。
宋代までの儒教知識豊富な行政文書は、難易度が高すぎて用いられなくなり、中国語の書き言葉が一気に口語に近くなった。
この中国語の口語を【白話】と呼びます。
さらに、元代には印刷術の使い方が変わります。
科挙が廃止され、教科書となる儒教教典の印刷は減り、それにかわる需要が生まれたのです。
中国では、盛場で客を集め、おもしろおかしく語る講談師がおりました。
こうした講談師の語る内容を印刷した【平話】というジャンルの書物が生まれたのです。
講談師が語る口調をそのまま記すわけですから【白話】で記され、難易度も下がりました。
挿絵入りで血湧き肉躍る活劇が展開される――エンタメ系印刷物の登場です。
ついに庶民が楽しむ娯楽と印刷術が結びついたのでした。
明代前期:教養を持て余した文人の出現
元のあと、貧しい漢人出身の朱元璋が明を建国しました。

朱元璋/wikipediaより引用
【科挙】も復活し、知識人たちが官僚になるルートも復活したようで、そう単純な話でもありません。
明からは【科挙】特化型の【八股文】という特殊な文体を習得しなければならなくなりました。
全国各地に【郷校】という勉強予備校が作られ、マニュアル通りの作文をする。そんな型にはまったマニュアル人間を量産するシステムとして、【科挙】は大きく変質したわけです。
こうしたシステムについていけず、ドロップアウトする文人が増えてゆくのが明代の特徴といえます。
彼らが食べていけるだけ経済も文化も、十分に発展していました。
明代の都市部では文人ネットワークが形成され、文人仲間同士で書画や詩文を発表し、名を高めていくと、食べるに困らないだけの収入を確保できたのです。
都市部で隠者のような暮らしを送る「市隠」(都市に住む隠者)という生き方であり、一種の理想とされました。
かくして明代、特に都市部では教養にあふれた文人が暇とスキルを持て余しかねない状況が形成されたのです。
そんな爛熟した明代文化に、経済の好転という状況が日本からもたらされます。
明末の出版ラッシュへ
明の建国当初、朱元璋は日本に怒りを募らせておりました。
明建国に至る際、彼のライバルとして立ち塞がった張士誠の残党が日本に亡命していたのです。
銘菓「外郎」(ういろう)は、こうした元滅亡後の亡命者が日本にもたらしたとされています。
しかし、この険悪な関係も、改善を迎えることとなります。
朱元璋の四男・朱棣(しゅてい)は、甥である建文帝を打倒し、皇帝となりました(【靖難の変】)。
クーデターで政権を簒奪して、果たして認められるのかどうか。
そう疑心暗鬼であった朱棣のもとに、日本の足利義満から使者が到着し、なんと即位を祝したのです。

足利義満/wikipediaより引用
あの何かと反抗的な日本から接触してきたことに彼は大いに喜び、足利義満を日本国王としたのでした。
室町幕府は【遣明使】を派遣し、日明関係は良好でした。
しかしこれもあくまで朱棣と義満の代だけであり、公式な関係は途切れます。
一方で、両国の需要と供給は途切れません。
このころ朝鮮経由で銀の採掘技術が日本に伝来し、シルバーラッシュが到来したのです。
当時の日本は戦国時代です。大名たちは自領の銀山を開発し、外貨獲得に乗り出します。
時間のある知識人層。
銀の流通による好景気。
印刷技術向上。
こうした要素が重なり、明に未曾有の出版ラッシュが到来。
現代の定番フォントである【明朝体】も、この流行により、生み出されました。ちなみに中国では同様のフォントは「宋体」と呼ばれます。日中間で印刷が広まるタイムラグがみてとれます。
大きな絵が入り、読みやすい文体で書かれた、飛び切り面白い【白話小説】――元代の【平話】からブラッシュアップをはかりつつ、滅法おもしろい作品が世にあふれていくのです。

『三国志通俗演義』/wikipediaより引用
こうした飛び切り面白いエンタメは、日本にも伝わり、新たな文化を生み出します。
たとえば【落語】です。
明末の文人である馮夢竜(ふう ぼうりょう/ふう むりゅう)の書いたジョーク集『笑府』を、武士に仕える御伽衆が語ったことがルーツの一つとされています。
海を超えて伝わる木版印刷
徳川家康も推奨した【活版印刷】とは別に、純粋なエンタメとして【木版印刷】による出版物が日本にも上陸。
戦国時代は【倭寇】貿易、江戸時代からは長崎出島経由で伝わってきました。
木版印刷は活版印刷と異なり、自由自在な絵が大きな特徴です。
それまで絵を楽しめる人々は、絵師に掛け軸や屏風絵を頼むことのできる上流層だけでした。
しかし、印刷物ならば庶民の需要にも応じることができる。
かくして【浮世絵】が芽吹いてゆきます。
【白話小説】は、ページの半分に大きな挿絵が入ります。
【赤本】に【青本】、そして【黄表紙】も大きな挿絵が特徴です。
とびきり面白い話に大きな挿絵をつける形式が、かくして日本にも広まっていったのです。
『べらぼう』の舞台となる江戸中期も、明代と共通する点があります。アイデアを目にしたら、それをそのまま落とし込めるだけ文化が成熟がしていました。
江戸幕府中興の祖である8代徳川吉宗は、その政策において明を参照しました。

徳川吉宗/wikipediaより引用
【科挙】こそ導入されないものの、各地に【藩校】を作り、そこで武士に学問をさせ、日本人の教養レベルを上げていった。
明代の、官僚になれない、あるいはならない士大夫は、己の知識と発想を金にして生きる道を模索していました。
日本の武士もそうです。
世襲ではどうしたって禄高を増やしようがない。
けれども武士として身につけた教養で狂歌を詠み、黄表紙を手がければ金が落ちてくる。
教養、技術、都市の発達、明末から遅れることおよそ一世紀、かくして江戸でも出版文化が大きく花開くのです。
白話小説を解読し、翻訳し、翻案せよ
2024年秋に公開された映画『八犬伝』があります。

映画『八犬伝』(→amazon)
曲亭馬琴がいかにしてこの大長編『南総里見八犬伝』を書き上げたか――その様を描いた作品であり、原作の末尾にはこんな一文があります。
「世界伝奇小説の烽火、アレクサンドル・デュマの『三銃士』の先立つこと三年」
これは確かにその通り。
曲亭馬琴の発想がデュマに匹敵するという単純な話でなく、西洋でも東洋でも、伝奇小説が生まれるだけの文明成熟度があったとみなすことができます。
前置きが長くなりましたが、本題に入りましょう。
日本のエンタメの祖といえる『南総里見八犬伝』は、どんな経緯でできあがったのか?
それを辿るには、中国の「四大奇書」のひとつ『水滸伝』とその伝播と需要を見ることでつかめます。
ここまでみていくと明からの【白話小説】はすんなりと日本に広まったように思えます。
しかし、そう簡単でもありません。
日本の漢文読解術である【書き下し】は、あくまで【文言】を対象としたものです。宋代までのお堅い行政文書のような文体ならば、読み解くことができます。
しかし元代以降、話し言葉が入った【白話】は読みにくい。なんとなく意味はつかめても【書き下し】が通用しません。
現代中国語に近づいてゆく過程といえる【白話】を、日本では【唐話】と呼びました。
同じ明代の『三国志演義』は、文体が固い文言のため、各地の藩校で教科書として採用されました。
しかし、くだけた文体のものはそれができないのです。
だからといって諦めるわけでもない。
長崎の清人から習い、なんとか解読しようと試みる人はいました。ちなみに江戸時代でも【漢文】と現代中国語は異なると認識されておりました。
当時は「唐語(からことば)」と呼ばれ、長崎で学んだ平賀源内は自作に唐語の台詞を混ぜております。勉強熱心で異国趣味を好む島津重豪も、唐語を学んでいたとか。
【書き下し】はできなくとも、意味はなんとなくわかる。おまけにページの半分は大きな挿絵が入っておりますので、これを読みこなしたら相当面白いのではないかと見出されてゆきます。
そんな中でも一番盛り上がったのが『水滸伝』です。
日本人にとっては未知のジャンルであり、「これはなんとしても読まねば……」と熱が入ります。
まず【原著】から入る。
しかしそれだけでは読みこなせないので、日本人向け注釈を入れた【和刻】が生まれる。
次に【翻訳】。
そして最後に【翻案】まで到達します。
かくして『水滸伝』は江戸時代の日本に浸透してゆきました。
『水滸伝』でバトルものの面白さを知る
当時の日本人にとって、いかに『水滸伝』が強烈に面白かったか?
小中学生の頃に熱中した『ジャンプ』や『マガジン』などの漫画を思い出してください。
どの年代であろうと、バトルものが人気作品の定番。
凄まじい力を持つヒーローたちが出会い、チームを結成し、悪と戦うフォーマットは、まさに娯楽の王者であると皆さんも頷かれるでしょう。
しかし江戸時代、まだこのフォーマットがなかった頃は?
『べらぼう』を紹介する本や番組では、蔦屋重三郎が手がけ、大ヒットした出版物が紹介されます。
その内容の多くは、子ども向けの【赤本】ならば教育的なものか、御伽話。大人向けの【青本】や【黄表紙】にせよ、ラブコメディやパロディであり、当時の人は笑えたかもしれないけれど、時代背景が異なる現代人はどうか。
漫画雑誌の連載がラブコメとギャグばかりで、バトルものがないような状態だと、盛り上がりに欠けませんか?
当時はまだ、バトル作品のフォーマットが定着し切っていなかった。
だからこそ、そこに新ジャンルとしてバトル作品が登場したらどうなるか。
まさにその現象が起きたのが江戸時代――『水滸伝』だったのです。
では『水滸伝』とはどんな作品で、何が刺激的だったのか?
物語は、封印されていた百八星が飛び散るところから始まります。
逆に、百八人集めるという設定が提示されるわけで、どんな連中が、どうやって仲間になっていくのか。『水滸伝』はこのヒーローたちのチーム加入の過程を、延々と続けてゆくのです。
それがとにかく刺激的――エログロバイオレンスに満ちています。
講談師が教訓やら道徳心やら捨て去り、純粋に刺激と面白さを求めていったからこそ、倫理観を抜きにしてひたすら刺激的な展開が続く。
なお、『水滸伝』では人肉食ネタが頻出します。当時の中国が実際にそうだったわけではなく、あくまでフィクションを盛り上げるための誇張です。
『水滸伝』の残虐描写を用いて古代中国を批判するのは、ジャッキー・チェン映画を見て「中国人は全員カンフーが得意なんだね!」と言うようなものですので、やめておきましょう。
ページをめくるたびに、無茶苦茶熱くて面白い展開が、ひたすら続いてゆきます。
なんだこれは……そう、こういうのを求めていたのだ、と当時の日本人は、寸暇を惜しんで『水滸伝』やらそのガイドブックを読み漁ったのでした。
蔦屋重三郎『水滸伝』に商機を見出す
田沼意次が失脚し、華やかな【田沼時代】が終わりを告げ、江戸っ子にとって憂鬱な松平定信の時代が到来します。

松平定信/wikipediaより引用
そんな寛政4年(1792年)、蔦屋重三郎が【黄表紙】『梁山泊一歩談』三巻、『天剛垂楊柳』三巻を売り出しました。
文章は山東京伝で、挿絵は北尾重政が手がけています。
『水滸伝』の一部をまとめた内容で、いわばリハビリ出版です。
というのも、その前年、山東京伝は処分を受けており、心理的な打撃を受けていました。
軽薄なラブコメディ路線はもう書けない。ならばバイオレンス路線で売れれば手堅い。だったら『水滸伝』を書いてみたらどうだ!と、そんな狙いを感じさせます。
しかし、現代でもラブコメを得意とする作家や漫画家が、突如ノワールを手がけたら、違和感があることでしょう。山東京伝にはあまり合わなかったのか、どこか冴えない出来でした。
それでは『水滸伝』翻案が無駄になったかというと、そうではありません。
蔦屋重三郎と山東京伝の周辺に、曲亭馬琴という作家志願の男がおりました。馬琴は目を光らせつつ、この過程を見守っていたのでしょう。

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵
蔦屋重三郎たちの取り組みから、『水滸伝』が【寛政の改革】の後の逃げ道にもなったことも見えてきます。
遊里で遊ぶ軽薄なラブコメ路線が駄目ならば、硬派なアレンジ『水滸伝』ならばよいのではないか?『水滸伝』の暴力や不貞描写を踏まえるとなんとも不思議なのですが、かつての日本には中国由来のものはなんとなく教養扱いをして、エログロだろうと見逃す傾向がありました。
実際、面白いわけだし……そう考えた出版界は、こうしたアレンジ作品を大量生産します。
実は『水滸伝』翻案の種類が最も多いのは中国ではなく、日本です。
中国ではそもそもアレンジ需要がそこまでなかったとも考えられますが、日本ではスラングでいうところの「魔改造」の域に到達しています。
当時の感覚でいえば、『水滸伝』の定義はこうです。
「大勢の異能力の持ち主がチームを結成し、悪と戦うもの」
それは要するにバトルものではないか。そう言いたくもなるでしょう。
江戸っ子にとって『水滸伝』とは「バトルもの」を指す代名詞と化しており、例えば現代の作品も彼らからすれば『ジョジョの奇妙な水滸伝』『呪術水滸伝』『鬼滅水滸伝』などとでも呼ばれるかもしれません。
日本人特有のオタクセンスも、このアレンジ過程で発揮されています。
伊丹椿園『女水滸伝』は、原典の女性比率が高くなっています。
曲亭馬琴『傾城水滸伝』は、舞台を鎌倉時代の日本とし、全員性転換しております。
そうはいっても、馬琴本人の発案ではなく、あくまで食べていくために持ち込まれた企画です。
性転換して原典をなぞるだけでしょうもない。そうぼやきつつ、さして気合いも入れずに手がけていたようですが。
こうした性転換パロディは江戸時代から定番の日本文化で『傾城三国志』もあります。
なお、こうした女体化というとハーレムギャルゲーのようなものだと現代人は考えがちですね。しかし当時は美少女戦士需要、つまりは女性読者向けであることもあったとか。
馬琴と北斎も『水滸伝』を手がけ『八犬伝』へ
曲亭馬琴が山東京伝に弟子入りしていたかどうか。
当人も何やら言い訳めいたことを書き残しておりますが、二人が近くにいたことは確かです。

山東京伝/wikipediaより引用
精神的にどこか弱い、そんな京伝のどこか冴えない『水滸伝』翻案を横目に見つつ、馬琴は何を思っていたのか。
実はこの曲亭馬琴こそ、江戸文人の中でも『水滸伝』への没入が随一の人物といえます。
どんなに高くとも原著を買う。読み出せば飯を食うのも忘れてしまう。そこまで没頭しました。
蔦屋重三郎の死後、『べらぼう』次世代の世界で、馬琴の『八犬伝』への熱い想いと知識は花開きます。
文化2年(1805年)、文は曲亭馬琴、画は葛飾北斎という、ゴールデンコンビが手がけた『水滸伝』絵本として『新編水滸画伝』が刊行されました。

葛飾北斎の挿絵が入った曲亭馬琴『椿説弓張月』( 大弓を引く源為朝)/wikipediaより引用
もっとも、版元と揉め、十巻までで馬琴は手を引いてしまい、北斎の画は続行しております。
己の連載がどうあろうと、曲亭馬琴の『水滸伝』への情熱は変わりません。
厄介なファン心理として「自分ならもっとよい『水滸伝』が書ける!」という野心もふくれあがってゆきます。
馬琴は『水滸伝』をこよなく愛しているものの、お堅い人物らしく、作中の倫理観に乏しい表現は気に入らなかった。
几帳面な馬琴からすれば、あまりにいい加減に思えるところもあったのでしょう。
俺なりの『水滸伝』を作り上げてみせる――そう心に決め『南総里見八犬伝』を世に送り出すこととなったのです。
文化11年(1814年)に刊行が開始されると、馬琴は失明後も書き続け、ついに28年をかけて天保13年(1842年)に完結したのでした。
失明してからは息子の嫁であるお路の助けを借りてまで、この大長編を仕上げたのです。
国芳のフルカラー『水滸伝』に熱狂!
寛政4年(1792年)、蔦屋重三郎が【黄表紙】『梁山泊一歩談』三巻、『天剛垂楊柳』三巻を売り出したことは前述の通りです。
この本はじめ、蔦屋の刊行物は北尾重政が挿絵を手がけたものが多い。
蔦屋重三郎が没した寛政9年(1797年)、日本橋の染物屋に芳三郎という男児が生まれました。
7~8歳頃には北尾重政の絵を写すようになり、なかなかの腕前を見せます。
もしかしたら、こいつァ絵師になれるんじゃねえか?
そう15歳の時に描いた鍾馗 (しょうき)像が話題を呼び、この芳三郎は歌川派に弟子入りし、名を連ねることとなります。
蔦屋重三郎が最晩年に売り出した東洲斎写楽の【役者絵】は当たらず、ライバルと目された歌川豊国が江戸っ子の人気を集めておりました。

歌川豊国『けいせい屏風浦』/wikipediaより引用
豊国とその弟子の人気はますます高まり、次第にはこう言われるようになります。
「歌川派にあらずんば絵師にあらず」
芳三郎はそんな豊国の弟子となり、「一勇斎国芳」と号しました。
しかし、いまいち芽が出ずパッとしない。
役者絵はどうしたって、豊国のような絵が受ける。国芳は自分の個性を入れてしまうし伸び悩んでいました。
文政10年(1827年)頃、そんな国芳が手がけた錦絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』が刊行されました。
それまでの江戸っ子たちは【黄表紙】の挿絵でしか『水滸伝』の百八星を見ることができませんでした。
それがフルカラーの【錦絵】で刊行されると、たちまち話題作となったのです。
当時の【浮世絵】は蕎麦一杯の値段とされ、トレーディングカード感覚で集めることができました。
人気キャラクターは複数のパターンがあり、コレクター魂を刺激。
【役者絵】とは違い、本物に似せる必要はありません。国芳のセンスを発揮させ、豪快に、ともかく派手に描くことができます。
かくして国芳は、【役者絵】や【美人画】の次にブレイクする【武者絵】のナンバーワンとみなされるようになったのでした。
ちなみに本場中国でも『水滸伝』の挿絵はモノクロ版画が主流であり、派手なフルカラーで描かれた百八星は画期的なものです。
中国では人気の低い百八星は「ハズレ」扱いであり、ビジュアル化もされにくい。そのためか、彼らを紹介するオンライン百科事典の項目ページでも、国芳の作品がしばしば用いられています。

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 九紋龍史進 跳澗虎陳達』/wikipediaより引用
国芳の絵を見ていると、『水滸伝』がどうして江戸っ子の心を掴んだのか、その理由が見えてきます。
刺青をしている。
露出度が高い。
この点が大きいと思われるのです。
高温多湿な江戸では、夏場ともなれば男たちはやたらと脱ぎました。
脱ぐとなれば皮膚そのものでアピールしたい。そんな需要に応えるのが刺青です。
刺青は見た目が派手なうえに、彫るときは痛みを伴うため、タフさもアピールできる。イケてる江戸っ子は刺青を彫る――それが江戸のファッションでした。
ちなみに中国では身体を傷つける刺青は、あまり流行しておりません。流行していた宋代は例外的な時代といえます。
露出度についても、本国の挿絵ではそこまで派手に脱いでいません。
しかし、水のほとりを意味する『水滸伝』だけに、水中格闘の場面がある。日本人はこう考えたのでしょう。
「やっぱここは脱がせねえとな!」
男性の下着にせよ、宋代には褌ではなく、トランクス状の褲衣です。
しかし、江戸っ子はお構いなしに褌にして、極限まで露出度をあげています。髪の毛もザンバラにして靡かせ、ビジュアルがとことん派手になっているんですね。他国作品のキャラクターを脱がせ、セクシーな下着姿にする。そういうことを日本では江戸時代からしていたわけです。
高い露出度と刺青。
そんな需要が江戸っ子に大ウケした『水滸伝』。
国芳の【錦絵】を見た江戸っ子は、これをそのまま刺青にしてぇ!と熱狂します。
かくして、国芳の描いた『水滸伝』の英雄は刺青の定番となりました。
現代でも刺青師は国芳の画集はマストとされます。『水滸伝』の名場面で画像検索をかけると、刺青画像が大量にヒットするのも、このときの熱狂がまだ残っている証拠です。
日本で『水滸伝』は消えてしまったのか?
このように、江戸っ子のみならず日本人は、『水滸伝』を熱狂的に愛してきました。
ただ、時代によって違いはあります。
特に江戸時代末期から明治時代初期にかけては「あんな古臭いモノ」と思われてしまいました。

月岡芳年『月百姿 史家村月夜 九紋竜』/wikipediaより引用
「脱亜入欧」を掲げた近代以降ともなれば、なおさらだろうと思いたくもなりますが、それでも翻訳翻案の類は続けられています。
映像化作品もあります。
1972年の香港映画『水滸伝』には、黒沢年男さんと丹波哲郎さんが出演。
1973年から1974年にかけては日本テレビで、横山光輝版を原作とするドラマ化もされております。
現代日本ではどうか?というと、人気としては双璧であった『三国志演義』とかなり差を付けられてしまいました。
『水滸伝』はコーエーテクモゲームスの定番タイトルからも消えてしまっています。無双シリーズにもありません。
中国では「四大奇書」の中でも人気ナンバーワンを誇り、どうかというと“定番”の存在なのです。
夫婦そろって客の肉で人肉饅頭をこしらえて売っていた母夜叉(ぼやしゃ)・孫二娘がマスコットキャラクターのレストランチェーンもあるほどです。
人肉を売る女がかわいいイラストでマスコットになるのかと私も驚いておりましたら、日本にも進出しています。
「孫二娘潮汕牛肉火鍋」です。
そのおいしそうなメニュー写真を見ながら、中国と日本での『水滸伝』受容の差をどうしても考えてしまいます。

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個 母夜叉孫二娘』/wikipediaより引用
イケメンだらけの『水滸伝』は日本の伝統
中国と日本の『水滸伝』需要には、確かに差があります。
中国に悪意を抱いている意見の典型例として「あんな暴力的で野蛮なものは、日本人には合わない」というものがあります。
しかしこれまでみてきた通り、日本のバトルものの先祖が『水滸伝』ですので、これはあてはまりません。むしろ『三国志』のように、年代ごとにヒットする作品が出なかったことがあるとは思います。
しかし、2020年代後半には変わるかもしれませんし、それも伝統かもしれません。
2025年『べらぼう』では、後半に曲亭馬琴が出るからには、言及される可能性があります。
そしてこの歳には、2026年放映予定の『北方謙三版水滸伝』のビジュアルやキャストが公開されつつあります。
二番目に発表されたのは、晁蓋(ちょうがい)役の反町隆史さんです。
晁蓋は宝塔を担いで歩く見せ場があり、「托塔天王」と呼ばれています。そのためか、マッチョで豪快な中年俳優が演じることが定番とされています。
反町隆史さんでは、宝塔を担ぐには少し細身ではないか。そう思っていたところ、中国からのコメントでこんなものがありました。
「イケメン、イケメン、イケメンの晁蓋! イケメンは正義、素敵な晁蓋をありがとう!」
なるほど、そうきたか! そう納得できたものです。
ちなみにこの反町さんの晁蓋は、歌川国芳の弟子である月岡芳年が描いた晁蓋に通じるものがあります。この晁蓋もどこかセクシーなのです。

月岡芳年『晁蓋』/wikipediaより引用
日本では、『水滸伝』の英雄好漢を、原典よりもセクシーなイケメンにする伝統がある。改めてそう思いました。
宋江は原典では冴えない中年男ですが、そんな彼をイケメンの織田裕二さんが演じることも、この日本の伝統には一致しております。
このままイケメンを投入し続ければ、このドラマ版は日本の伝統として、本場中国でも受け入れられることでしょう。
これからも、イケメンが続くであろうキャスティングに注目してゆきたいと思います。
あわせて読みたい関連記事
-

『べらぼう』古川雄大が演じる山東京伝は粋でモテモテの江戸っ子文人だった
続きを見る
-

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家で日本エンタメの祖
続きを見る
-

『べらぼう』主人公・蔦屋重三郎~史実はどんな人物でいかなる実績があったのか
続きを見る
-

葛飾北斎の何がそんなに凄いのか|規格外の絵師 尋常ならざる事績を比較考察
続きを見る
-

なぜ東洲斎写楽は1年足らずで表舞台から消えたのか~蔦重が売り出した浮世絵師の顛末
続きを見る
-

家事はせず酒タバコを好み気が強い|葛飾応為(北斎の娘)は最高の女浮世絵師だ!
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
高島俊男『水滸伝と日本人』
高島俊男『水滸伝の世界』
小松謙『熱狂する明代』
大木康『中国明末のメディア革命』
井波律子『中国の五大小説(下)』
他






