長和五年(1016年)1月29日、三条天皇が譲位しました。
次に即位したのは幼い後一条天皇であり、摂政に就いたのが藤原道長。
「後」とつく通り、この幼帝は藤原定子の旦那様・一条天皇のお孫さんにあたります。
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即位した順番としては
一条天皇
↓
三条天皇
↓
後一条天皇
ですね。
今回は藤原道長との関係も含めて、三条天皇の足跡を追ってみましょう。
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孫を天皇にしようと道長、走る
後一条天皇は道長の娘彰子の子供でしたから、外祖父としての立場を振るいたくてしかたがない道長は、三条天皇にあれこれ圧迫をかけていました。
三条天皇には東宮(皇太子)時代既に別系統の藤原氏から奥さんをもらっていたのにも関わらず、新たに自分の娘を嫁がせるわ、同じく天皇が目を患ったときには「お体も悪いんですから早く譲位してくださいよ」とせっつく始末。
そのため、譲位したとき三条天皇はまだ40歳にもならない若さでした。
当時の寿命を考えれば、確かに位を譲ってもおかしくはない年齢ですが、事の経緯を知ると道長の強引さが際立ちますね。
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【天皇と対立し皇位を狙っていた】というと槍玉に上がるのは足利義満や織田信長で、実際は狙っちゃおらず、道長のほうがよほどなことをしているような気もします。
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とはいえ三条天皇も皇位に就いた者としての責任や意地がありますので、そう簡単に言いなりにはなるまいと努力を重ねていたようです。
例えば上記の道長の娘・妍子ではなくそれ以前から連れ添ってきた女性(残念ながら文字コード制限で字が出ません)を皇后にし、譲位の際は皇后との間に生まれた親王を皇太子にするなど、いろいろ策を重ねました。
しかし他の貴族は道長を恐れてとりまきになるばかりで、天皇に尽くそうとする者などおらず、たった一人で闘うことを余儀なくされました。
結局、妍子は道長の意向で中宮になり、皇太子のほうはやはり道長の圧力に耐えかねて、自ら位を降りるという最悪の結果になります。
百人一首にも選ばれた三条天皇の歌とは
目の病気についてはどんなものだったのかわかりませんが、失明寸前までいったのは事実のようです。
三条天皇は薄れ行く視界を何とか留めようと、あちこちの寺社に快癒の祈祷を命じました。
しかし薬や祈祷の効果はなく、さらに内裏(天皇の住まい)が炎上するという不吉な事故が起きたため、結局譲位を受け入れざるを得なくなったのです。
一説には三条天皇が薬を飲んだ直後に失明したともいわれていますし、内裏の件にしてもタイミングが良すぎて怪しさ爆発ですけども、当時これを告発する勇者はいませんでした。
そして譲位が決まった後、在位約五年という短い間の奮闘を振り返りながら、三条天皇は歌を詠みます。
心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
【意訳】決して長生きしたいとは思わないが、もしそうなったとしたら、今宵の名月はいかに恋しく感じられる事だろう
百人一首にも採られている有名な歌ですので、ご存知の方も多いでしょう。
かるたとにらめっこしているとなかなか背景にまで意識が向きませんが、実はこんな孤独な闘いの末に詠んだものだったのです。
三条天皇は譲位後出家し穏やかな生活に入ったものの、既に精根尽き果てていたのか、41歳で亡くなります。
一方道長は、三条天皇が亡くなった年に後一条天皇へも娘を嫁がせ、一つの家から三人の皇后を立てるというウルトラC(のゴリ押し)を達成しました。
そしてあのイヤミたっぷりの歌
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
を詠みます。
道長の死後 藤原氏ボッシュート!
このとき道長は既に52歳。
そろそろこの世からご退場いただいても構いませんのにと思っていた人も多かったでしょうが、さらに10年ほど君臨し続けました。
晩年には(自分と)貴族達の極楽往生を願って大規模な寺院の建築に力を注ぎ、周囲の貴族達はこぞって工事に協力したそうです。
朝廷に納めるはずのものを先に道長へ納めるほどだったといいますから、呆れてしまいますね……。
ここまでだと道長の圧勝に見えますが、実はそうとも言い切れないところがあります。
道長が亡くなってから六年後、三条天皇の孫にあたる後三条天皇が即位したのです。
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後三条天皇も約五年という短い間の在位でしたが、その間に経済改革を次々と行い、藤原氏の特権をボッシュートするなど善政を敷きました。
これにより財産の偏りが減り、藤原氏以外の貴族や庶民の生活がマシになったそうです。
もしかすると、お爺様の無念を晴らすという意味もあったかもしれませんね。
道長にとっての月は生きている間に満ちましたが、三条天皇の月はご本人が亡くなってから満ちたようです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
三条天皇/wikipedia
藤原道長/wikipedia