大河ドラマ『豊臣兄弟』第34回でも描かれた家康の人質時代――その始まりに必ず登場する武将がいます。
戸田康光です。
三河田原城(愛知県田原市)を本拠とする武将であり、もともとは今川家へ送られるはずだった竹千代(家康)を途中で奪い取り、敵方の織田信秀へ引き渡したとされる人物ですね。
幼少期の天下人を売り飛ばした男として語り継がれてきましたが、近年の研究ではこの強奪説そのものが疑問視されています。
それは一体どういうことなのか。
戸田康光の生涯と共に振り返ってみましょう。
渥美半島から今橋城へ攻め上がった一族
そもそも戸田氏は、渥美半島に根を張り、対岸の知多半島まで手を伸ばして三河湾の制海権を握った国衆です。
海の勢力ですね。
寛正六年(1465年)には初代の戸田宗光が幕府の命で三河の反乱を鎮圧しており、このとき共に戦ったのが、家康の先祖にあたる松平信光でした。

松平信光/wikimedia commons
戸田と松平は、もともと近い間柄だったのです。
一方、東海道の要衝である今橋(愛知県豊橋市)をめぐっては牧野氏や今川氏と争い続け、永正十四年(1517年)には今川氏親の討伐軍に渥美半島まで攻め込まれ、降伏したこともありました。
そこへ西から現れたのが、家康の祖父・松平清康です。

家康の祖父である松平清康/wikipediaより引用
清康と和議を結んだのが、父・戸田政光から家督を継いで田原城主となった戸田氏四代目――戸田康光。
※同時代の史料に見える名は「宗光」で、「康光」は後世の系図に記された名前です(本記事では康光で統一)
しかし、この松平清康が、天文四年(1535年)12月、尾張守山で家臣に斬られてしまいます。
俗に「守山崩れ」と呼ばれる事件ですね。
かくして西三河が混乱するなかの天文五年(1536年)、康光は牧野氏から今橋城を奪い返し、戸田氏の全盛期を築き上げます。
康光は、やり手の国衆だったと言えるでしょう。
天文十年(1541年)には、二男の戸田宣光を二連木城へ入れ、嫡男の戸田堯光(たかみつ)に家督を譲って隠居。
つまり竹千代の一件が起きる六年前に、戸田氏の当主はすでに戸田康光から堯光へ移っていました。
娘の真喜姫を松平広忠へ嫁がせる
隠居したとはいえ、戸田康光が国衆としての活動を止めたわけではありません。
天文十三年(1544年)、娘の真喜姫を岡崎城主・松平広忠のもとへ。
家康の父である広忠と縁を結び、勢力の維持に努めたわけですが、よく知られるように広忠には於大の方という妻がいましたよね。
徳川家康の生母です。

於大の方/wikipediaより引用
彼女は、実家・水野家が当主の代替わりによって今川方から織田方へ鞍替えしたため、離縁されていました。
そこで、空いた後妻の座に、戸田康光の娘が入ったのです。
康光としては、真喜姫が男子を産みさえすれば外祖父として松平家に食い込めるわけで、三河の国衆としては非常に有効な手立てと言えるでしょう。
しかしこの縁組が、後に「戸田は縁者を裏切った」という話へ展開される要因になってしまいます。
輿入れから3年後のことです。
竹千代を奪って織田へ売ったという通説
天文十六年(1547年)8月。
通説では、織田信秀の攻勢に苦しむ松平広忠が今川義元へ援軍を求めたため、その代償として嫡男の竹千代を人質に差し出すことにしました。
護送を任されたのが、縁戚である戸田康光です。
老津の浜(愛知県豊橋市)から船を出し、駿府へ向かう。
ところが康光は舵を逆に切り、船を尾張へ向かわせた――。
こうして竹千代は熱田の豪商・加藤図書助順盛の屋敷へ届けられ、以後2年ほどを織田方で過ごすことになった、と語られてきました。
売値は永楽銭で千貫とも五百貫とも伝わり、金額そのものにも異説があります。
しかし、本当に竹千代(家康)は売り渡されたのでしょうか?
今川と織田は手を結んでいた
上記のように、通説では今川へ送られるはずだった竹千代が敵方の織田へ渡されたため、戸田康光の「裏切り」とされました。
ところが当時の今川と織田は、常に敵対していたわけではありません。
天文十六年(1547年)8月の時点で、松平・今川・織田の関係はいかなる状況だったのでしょう?
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である柴裕之氏によれば、前年の天文十五年(1546年)から、三河は以下のような構図になっていました。
今川
↓
松平広忠・戸田父子
↑
織田
今川義元・織田信秀・牧野保成・松平信孝らの反広忠勢力に対し、松平広忠と戸田康光・堯光の父子が組んで対抗する。
つまり今川と織田は同じ側にいて、戸田氏はむしろ松平広忠の味方だったのです。
実際この年、信秀は三河の安城城を攻め落としており、広忠は東の今川と西の織田に挟まれ、ついに織田信秀への従属に追い込まれました。

織田信秀イメージイラスト
しかし、それも長くは続きません。
広忠はほどなくして織田家への従属を拒み、今度は今川義元へ接近するのです。
研究者の糟谷幸裕氏は『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』の中で、今川と織田の連携も同じ年のうちに決裂し、9月には今川方が広忠を支援して織田方と戦っていると記しています。
敵と味方がこれだけ目まぐるしく入れ替わる。
とにかくややこしい状況で「戸田康光が裏切って敵に売った」という単純な図式は、どうにも当てはめにくい。
ならばなぜ、戸田康光が竹千代を売ったなんて話が出てきたのか?
柴裕之が退けた強奪説
大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証者である柴裕之氏は著書『徳川家康 境界の領主から天下人へ』の中で、竹千代が奪われたという話は江戸時代の諸書が伝えているだけで、同時代の史料からその事実はうかがえないとしています。
少なくとも、戸田康光が竹千代を奪って織田家へ売り渡したとは、同時代の史料から確認できないわけです。
となれば、竹千代はいつどうやって織田家に渡ったのか。

竹千代(少年期の徳川家康)/JR静岡駅前
柴氏の考察では、天文十六年9月に織田勢が岡崎城へ迫り、広忠が従属に追い込まれたときのことだとしています。
奪われたのではなく、負けて差し出したんですね。
なるほど、それならば納得できる……と思いきや「竹千代が織田家に移送されたこと自体も怪しい」と考えているのが、先ほどの研究者・糟谷氏です。
今川方は広忠を支援していたのに、その直後に竹千代を尾張へ送るのはいかにも不自然。
だとすれば、移送そのものが作り話ではないか。
そんな指摘であり、別の研究者・大石泰史氏も黒田基樹編『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』の中でこの意見を取り上げています。
竹千代は戸田氏に奪われたのか、広忠が差し出したのか、そもそも渡っていないのか。
いずれの説も決定打はない状況ですが、「戸田康光が売り飛ばした」という記録が同時代の史料に無いことだけは確かです。
今川軍を退けた田原城の攻防
同時に不自然なのが戸田康光の最期でしょう。
かつては以下のように語られてきました。
戸田康光が竹千代を織田へ送ったことに激怒した今川義元は、田原城へ兵を差し向け、天文十六年(1547年)9月5日に落城させた。
このとき戸田康光は、嫡子の戸田堯光ともども討たれ、戸田氏は滅亡した――。
竹千代の一件から、わずか一月ほどの出来事だったことになります。
ところが、ここも近年の研究で大きく見方が変わっています。
柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』の中で鈴木将典氏は、今橋城を攻められた康光は城を明け渡して今川氏へ降伏しており、田原城に籠もって徹底抗戦の構えを見せたのは嫡男の戸田堯光だとしています。
そして天文十六年(1547年)9月、田原城下の本宿で行われた激戦は、今川方の敗北に終わりました。
今川方の天野景泰は配下に多くの負傷者を出し、松井宗信にいたっては、総崩れになった味方を支えて城から出てきた敵兵を押し返し、どうにか退却したと記録されるほど。
押し返さねばならないぐらい今川軍が崩れており、今川義元の楽勝ではなかったんですね。

今川義元(高徳院蔵)/wikimedia commons
その後の今川軍は、田原城を包囲する付城を築いて、じりじりと締め上げていきました。
天文十七年(1548年)12月には、大村綱次という武士が「去年からの在陣」を賞されており、一年以上も囲み続けていたことがわかります。
それでも田原城は落ちません。
戦いは数年に及び、天文二十年(1551年)頃、堯光は渡海して城から逃れました。
今川氏に従うことを拒み、船でどこかへ去ったとみられますが、その後の動向は分かっていません。
嫡男の堯光は、一月で滅ぼされるどころか、今川軍の攻撃を数年にわたって押し止めていたのです。
康光は岡崎で今川に仕えていた
では、肝心の戸田康光はどうなったのか。
というと、討たれてなどいません。
今川氏に降伏した康光は岡崎(愛知県岡崎市)に在城し、今川氏のもとで西三河の支配に携わりました。
天文二十三年(1554年)11月には今川義元から岡崎在城のための知行地を与えられており、この頃まで存命だったことが確認できます。
竹千代を売り飛ばして一月で滅ぼされたどころか、その竹千代が今川家で元服する頃まで、康光は今川氏に従う国衆として岡崎にいたわけです。
一族も残りました。
二男の戸田宣光(よしみつ)は二連木(愛知県豊橋市)などの所領を安堵され、今川氏の従属国衆として存立します。
その子孫は徳川家康に仕え、江戸時代には信濃国松本(長野県松本市)の藩主となって、幕末まで家を存続させました。
別の系統も生きています。
菊地浩之氏『徳川家臣団の系図』によれば、康光の弟・戸田光忠は、田原城が攻められたとき、子の戸田忠次とともに城を脱出。
野田の西円寺を頼り、舟で矢作川の河口へ送られて上宮寺(愛知県岡崎市)に匿われたといいます。
その恩義からなのか、戸田忠次は三河一向一揆で一揆勢に加わり、家康と戦いました。
後に徳川家へ帰参した忠次は家康の家臣となり、天正十八年(1590年)の小田原征伐では江戸城の接収へ向かっています。
下野宇都宮藩の戸田家は、この忠次を事実上の祖としました。
裏切り者は後から作られた
諸説入り混じってなんともややこしい、戸田康光の動向を整理しておきましょう。
◆通説
戸田康光が竹千代を奪い、今川を裏切って織田へ売った。
しかし激怒した今川義元に田原城を攻められて一月で滅亡。
◆近年の研究
竹千代を奪ったという記録は同時代の史料にない。
当時の今川と織田は一時的に手を結んだのち、すぐ決裂している。単純な裏切りの構図だけでは説明しにくい。
田原城で戦ったのは康光ではなく、家督を継いでいた嫡男・堯光。
康光自身は今川に降伏したのち、岡崎で西三河の支配に携わって天文二十三年まで生きていた。
なぜ戸田康光は裏切り者とされたのか。
後に徳川家康が天下人となり江戸幕府を開いたことが影響している可能性があります。

徳川家康/wikimedia commons
天下人となった男には、幼少期に乗り越える苦難が必要であり、そこから這い上がってきたという偉業を引き立たせるため、戸田康光が悪役に据えられた可能性があります。
縁戚でもあった戸田康光は、その役を振られるのにちょうどよい位置にいたんですね。
人質時代の竹千代(家康)は苦難ばかりと言えず、むしろ今川氏のもとで元服し、義元の姪を妻に迎えるなどして厚遇されたことは、現在の研究では有力な見方になっています。
大河ドラマ『豊臣兄弟』では義元やその嫡男・今川氏真から手酷い扱いをされていましたが、あれはあくまで創作。
その影響が巡り巡って、今なお戸田康光に及んでいるような状況と言えるかもしれません。
なお、竹千代の人質時代の詳細については、以下の関連記事を併せてご覧ください。
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徳川家康の人質時代は本当に過酷だったのか?今川家ではむしろ厚遇されていた
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【参考文献】
- 柴裕之・小川雄編『戦国武将列伝6 東海編』(2024年6月 戎光祥出版)※鈴木将典「戸田宗光」
- 山田邦明『戦国時代の東三河 牧野氏と戸田氏』愛知大学綜合郷土研究所ブックレット23(2014年 あるむ)
- 柴裕之『徳川家康 境界の領主から天下人へ』(2017年7月 平凡社)
- 黒田基樹編著『戦国大名の新研究3 徳川家康とその時代』(2023年4月 戎光祥出版)
- 大石泰史編『今川氏年表 氏親 氏輝 義元 氏真』(2017年7月 高志書院)
- 菊地浩之『徳川家臣団の系図』(2020年1月 KADOKAWA・角川新書)
- 藤井讓治『徳川家康 人物叢書』(2020年1月 吉川弘文館)
【TOP画像】徳川家康/wikimedia commons

