織田信長が、室町幕府15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛したのは永禄十一年(1568年)のこと。
将軍をサポートしたことで細川藤孝や明智光秀との関係も深くなり、織田家の躍進が始まるため、この1568年は織田家にとって大きな年となりましたが、実はその2年前にも、実行直前で断念した【幻の上洛計画】がありました。
それを示す書状が見つかり、大きな話題となったのです。
書状とは、熊本県立美術館らが発見したもの。
『信長からの手紙』展を準備するため関連資料を精査していたところ、同館と熊本大永青文庫研究センター、東大史料編纂所の共同調査で確認されました。
なぜ今頃になって「発見」とされたのか?
というと以下の図録にあるように「紙の裏側」に書かれていたからです。
正確に言えば、一度使った書状を後で再利用したため、裏側に記録が残されていたんですね。
少し詳しく見て参りましょう。
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2年早い信長「幻の上洛計画」
まずは展示図録「信長からの手紙」から、その解説を引用してみますね。
<初公開の一色藤長・三淵藤英連署書状は、米田与右衛門家に伝わる医書の料紙の裏に書き込まれていた14通の同趣旨の文書のうちの1通。
永禄九年(1566)八月に矢島の義昭と信長の上洛計画が立てられたが、直前に六角氏の裏切りにあるなどしてそれが頓挫したために、発給されずに反故紙になって、そのために現在まで伝わったという、驚くべき文書である。>
(展示図録「信長からの手紙」より)
実は「幻の上洛計画」自体は研究者には知られていました(下にある永禄八年の信長文書などから)。
この書状は実際には発給されない「投函前のお手紙」ということで、大変に貴重な資料とされています。
では、赤字部分「矢島の義昭」とはどういうことなのか?
室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好勢に攻められ自害すると、自らの身の危険を感じたのが当時僧侶だった足利義昭。
奈良を脱出して、近江国(滋賀県)の観音寺城(近江八幡市)の六角氏を頼り、亡命しました。
その滞在先が矢島(滋賀県守山市)だったのです。
偉い将軍さまは直接お手紙を出さないので、形式的には部下が出しています。
このときは幕臣の三淵藤英(みつぶちふじひで)・一色藤長(いっしきふじなが)が書いています。
大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みの二人ですね。
「地元で反乱です。日本海へ逃げてください」
原文はこのようになっています。
もちろん読めなくても問題ありませんので、サッと目をお通しください。
御退座之刻、其国以馳走
無別儀候、然者、為 御入洛御供
織田尾張守参陣候、弥被頼
思食候条、此度別被抽忠節様、
被相調者、可為御祝着之由候、
仍国中ヘ御樽可被下候間、
此等之通被相触、参会之儀、
可被相調候、定日次第可被差越
御使候、猶巨細高勘・高新・冨治豊
可被申候、恐々謹言、
八月廿八日 藤英(花押)
藤長(花押)
菊川殿
菊川殿というのは、伊賀国か山城国の武士と考えられています。
義昭(このときは還俗して義秋)が奈良から脱出するときに協力した者たちですね。
義昭が幕府再興のために上洛する時に、尾張守の織田信長が協力してくれることになったことを伝え、義昭への忠節を依頼する内容です。しかし……。
なんと、8月28日の翌日に、世話人だったはずの六角氏の裏切りが発覚。
直前で上洛計画は頓挫してしまい、近江を脱出した義昭は、若狭の武田氏を経由して越前(いずれも福井県)一乗谷・朝倉氏のもとへ亡命しました。
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