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【幻の上洛計画】
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幻の上洛は「天下統一」への道か、否か
報道が発表された時点では以下のような論調がありました。
・状況の変化で実現しなかった「幻の上洛作戦」は、信長が早くから天下取りを強く意識していたことをうかがわせる(朝日新聞)
・記者会見した熊本大永青文庫研究センターの稲葉継陽教授は「信長が早期から京都で実権を握る計画を立てていたことを裏付ける非常に貴重な史料だ」と述べた(共同)
要は、信長さんがヤル気もりもりで、天下取りの野望が溢れ出ていたという印象ですね。
しかし、同時に疑問も浮かんできます。
「上洛」そのものに価値なんてあるのか?
信長を邪魔した近江の六角義賢も、実は1561年(永禄4年)に上洛しています。
要は、
【上洛=京都で実権を握る=天下統一!】
という単純な流れにはならない、ということですね。単に地理的要因の一つといえるでしょう。
信長が「天下布武」を使うのは、岐阜城を手に入れてからです。
この上洛計画は岐阜城を落とす前年のことですから、尾張一国の大名に過ぎません。
先へ進む前に、この時代の年表を確認し、信長の動きをいったん整理しておきますと……。
【関連年表】
1560年 桶狭間の戦い
1563年 小牧山城を作り、清須から本拠地を移動
1566年 信長が足利義昭を奉じた上洛計画が、亡命先の六角義賢に邪魔されて幻に ←今回はココ
1567年 信長、滝川一益を伊勢北部に侵入させる。美濃の斎藤龍興を倒し、岐阜城(稲葉山城)をゲット。天下布武を言い始める
1568年 岐阜を出発、六角義賢の観音寺城(のちの安土城の隣)を撃破! 足利義昭を連れての上洛に成功!
1575年 長篠の戦い
1582年 本能寺の変
麒麟のサインも天下統一の意味ではなかった
たとえば東大史料編纂所に所蔵されている「細川藤孝宛て信長文書」には、尾張時代の信長が足利義昭の上洛要請を受諾という、今回の幻の上洛計画文書よりも前段階の書状があります(永禄八年1565年12月5日)。
<すでに度々了承したように命令次第でいつでも覚慶(義昭のこと)の帰洛(上洛のこと)にお供する>
という内容です。
そこには、天下布武とともに語られる例の麒麟の「麟」の花押が使われています。
それが何を意味するか?
かつて麒麟の花押は天下布武と同時に使われたと言われ、天下統一の象徴とされてきました。
しかし、尾張一国の大名に過ぎない小牧山城時代から使っているので、麒麟そのものに天下統一という意味はありません。
信長が麒麟の花押を使った最初の例は、この手紙を出したちょっと前の永禄八年(1565年)九月です。
前年十一月に、義昭は幽閉先の奈良を脱出して、信長のほか上杉謙信ら全国の有力大名に「俺を助けて上洛させて!」という依頼をばらまいています。
これを受けた信長が、俺も麒麟のように京都へ駆け上がるぞ!という意志が反映したのがこの花押なのかもしれません。
ただ、それは「上洛して京都でブイブイ言わせたい」くらいのものであって、日本列島の統一という世界観からは、大きくかけ離れたものだったでしょう。
★
織田信長の生涯をまとめた記事が以下にございますので、よろしければ併せてご覧ください。
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川和二十六・記
【参考】
熊本県立美術館展示図録「信長からの手紙」(→link)