兄の織田信長に助言までして、すっかり大河ドラマ『豊臣兄弟』のキーパーソンとなっているお市の方。
たしかに戦国史において、彼女の存在は重要でしょう。
ご存知のように、織田信長と浅井長政の同盟を成立させただけでなく、茶々(淀殿)・初(常高院)・江(崇源院)の浅井三姉妹を産み、三女の血筋は現代の皇室にまで繋がっています。
それほど重要な二人でありながら、実際には不明点も多く、輿入れの時期すら諸説あるのが実情です。

お市の方/wikipediaより引用
織田氏と浅井氏、ひいては戦国史全体の未来を左右した、二人の結婚を振り返ってみましょう。
美濃攻略のためか 上洛のためか
浅井長政は天文十四年(1545年)生まれで、お市の方は諸説あって仮に天文十九年(1550年)としておきましょう。
仮に、信長が美濃を制した永禄十年(1567年)を結婚の年としますと、その時点でおおよそ長政23歳、お市18歳となります。輿入れが他の年であれば、そのぶん年齢もズレますね。
両家はなぜ結びついたのか。
第一の理由として考えられるのは、やはり美濃攻略でしょう。
浅井氏と織田氏の間に美濃があり、信長は「美濃斎藤氏の攻略」に取り掛かりながら、将来的に「信長の上洛戦」を企んでいます。
とはいえ、美濃斎藤氏は強力であり、簡単に落とせる相手でもない。
つまり当時の信長が、美濃を通って確実に上洛できる保証はどこにも無かった。
そうなると、信長が斎藤龍興を追放するまで、結婚の話を進められない可能性も考えられます。
信長が、実際に美濃を攻略したのが永禄十年(1567年)9月ですから、仮に同年の結婚であれば、両氏はドタバタとした日程で結婚を進めたこととなります。

浅井長政/wikimedia commons
果たして結婚適齢期の二人を、そんな不安定な状態で待たせておくのか。
信長が、美濃攻略を果たす前に、結婚の可能性はあったのか、どうか?
もう一つポイントとなるのが浅井長政の長男・浅井万福丸でしょう。
万福丸は永禄七年生まれですので、もしも、お市の方が永禄五~六年までに輿入れをしていたら、彼女の息子となる可能性も出てきます。
そうした事を踏まえながら、二人の結婚時期を具体的に見て参りましょう。
永禄二年から十一年まで諸説あり過ぎ
二人の結婚時期については永禄二年から永禄十一年まで、実に7説もあります。
一つずつ見ておきましょう。
永禄二年(1559年)『川角太閤記』の説
東国への寺社参拝に出向く浅井家臣の磯野員昌(いそのかずまさ)が織田信長と面会して、祝言を取り持つ内容。
『川角太閤記』は完全な物語ではないともされますが、永禄三年(1560年)桶狭間の戦いの前年にそんな話が交わされるのかどうか、大きな疑問は残ります。
永禄四年(1561年)『東浅井郡志』の説
1561年2月に浅井氏が美濃へ侵攻し、5月頃に浅井賢政が「備前守長政」と改めているのは、お市との結婚による織田家への接近や「長」の字が信長からの偏諱によるとみなす。
この年の5月に亡くなった斎藤義龍はかなり強力で、信長はほとんど攻略できてない状況かつ尾張の統一すら成し遂げていません。時の情勢を考えると、この説を採るのはやや難しいでしょう。

織田信長/wikimedia commons
永禄六年(1563年)高柳光寿の説
高柳光寿氏に提示された説ですが、根拠の面で慎重な検討が必要とされ、現在の主流説とは言いがたいようです。
永禄七年(1564年)『浅井三代記』の説
浅井亮政・浅井久政・浅井長政の三代を記した軍記物の『浅井三代記』。
寛文十三年(1673年)に成立すると、前田家の家老・奥村氏を経て加賀藩主に献上されました。
著者は浄信寺(滋賀県伊香郡)の別当・其阿雄山。
書物自体の信頼性は低いとされますが、中には見るべき記述もあり完全には創作とも言い難いようです。
しかし、永禄七年(1564年)時点での信長は、ようやく尾張統一を果たし、美濃攻略はこれからという状況でもあります。
永禄十年(1567年)和田惟政から三雲氏への書状
足利義昭の側近である和田惟政から三雲定持・成持父子に出された書状に「浅井長政とお市の方がすでに結婚したこと」が記されていました。

和田惟政/wikimedia commons
三雲氏は六角義賢の家老。
つまり、事実上は足利義昭(和田惟政)と六角義賢(三雲氏)のやりとりですね。
なぜ義昭が六角義賢にそんな手紙を出したのか?
というと義昭が上洛をするため、その通り道にある六角義賢に話をつけようとしたからです。
六角氏は浅井氏と敵対関係にあり「浅井氏と縁組をする信長は信用できない(≒領内を通すわけにはいかない)」という状況でした。
そこで義昭の側近である和田惟政が「信長は六角氏に対して敵意はありません」と説明しているもので、書状の内容から、遅くとも永禄十年12月までには両者の婚姻は成立していたことになります。
永禄十年(1567年)は9月に信長が美濃を制圧した時期であり、タイミング的にも合致しますね。
永禄十一年(1568年)『総見記』
小瀬甫庵『信長記』を補足・改訂・再編集したのが『総見記』。
『織田軍記』とも呼ばれ、オリジナリティある内容もあって後世の物語に採用されやすいという評価です。
つまり、創作の可能性が高いということになります。
永禄十一年(1568年)4月
小和田哲男氏が提唱した説で、賛否が分かれています。
『人物叢書 浅井氏三代』の著者である宮島敬一氏は、長政の子女の生年から判断して、永禄二年~永禄六年(1559年~1563年)が妥当としています。
以下、もう少し詳しく見て参りましょう。
浅井三姉妹から推測
結婚時期を推定するための要点としてよく用いられるのが、浅井三姉妹の生年です。
しかし、出生時を明確に記す史料はなく、没年からの逆算となります。
長女・茶々(淀殿)→永禄十年(1567年)※あるいは永禄十二年(1569年)
次女・初→永禄十一年(1568年)生まれ ※永禄十三年(1570年)
三女・江→天正元年(1573年)生まれ
長女・淀殿の生誕が永禄十年ですから、仮にそれが正しければ、永禄十一年の結婚説は消え、永禄九年(1566年)以前ならOKとなりますね。
永禄九年というのは、浅井久政の母(長政の祖母)が竹生島に弁財天像を奉納している年に当たります。
琵琶湖の水運に関する安全祈願等も考えられますが、長政が新たな妻を迎えたことに対し、「結婚が福をもたらすように」と祈願したものだとしたら?
弁財天は、芸事や財運の神として知られていますが、戦勝や厄除けの神でもあり、不自然ではないかもしれません。
ただし、近年では、茶々の生年を永禄十二年(1569年)とする説があり、この場合は永禄十一年(1568年)まで二人の結婚時期を引っ張れます。
永禄十年12月の輿入れであれば、永禄十二年生まれも自然な時期となりますね。

浅井三姉妹・左からお江(崇源院)・茶々(淀殿)・初(常高院)/wikipediaより引用
浅井万福丸の生母は?
注目は浅井長政の長男とされる浅井万福丸でしょう。
万福丸は永禄七年(1564年)生まれとされており、母がお市であれば結婚の時期も当然これ以前となります。
しかし、現時点では万福丸の生母が別の女性である可能性が否定できません。
『翁草』や『浅井氏家譜大成』では「長政には万福丸の他にも1~2人の男子がいた」とする記録もありますが、その記述が正確かどうかは不明。
他にも男子が実在した場合、その生母も不明ということになって、問題はさらに複雑になります。
浅井長政(当時は浅井賢政)が最初の正室である平井定武の娘を実家へ送り返したのは永禄二年(1559年)4月ごろとされています。
※平井定武は六角氏の重臣
万福丸の生年と噛み合わないので、少なくとも長政の息子(たち)を産んだのは彼女ではない。
つまり、お市の方と浅井長政の結婚時期を特定するためには、
「永禄二年4月~永禄七年の間(特に永禄六年)に別の女性が長政のもとにいたかどうかを判別する史料が必要となる」
という状況です。
他の女性の存在が皆無であれば、万福丸の生母がお市の方である可能性が高まるというわけです。
しかし、彼女で確定するとなると、後に織田信長が磔にして万福丸を殺しており、いくら戦国時代のならいだとはしてもなかなかキツい話になります。
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大河ドラマ『豊臣兄弟』の時代考証を務める黒田基樹氏は著書『お市の方の生涯』(→amazon)の中で永禄十年説を唱えています。
根拠となるのが、前述の通り和田惟政の書状です。
以前は年代を特定できなかったこの書状が永禄十年(1567年)と確定されたため、長政とお市の結婚も「永禄十年12月頃であろう」という結論に達しています。
そう考えると、美濃攻略後に上洛準備を進める時期と重なり、婚姻の政治的意味も理解しやすくなります。
なお、信長と義昭が実際にどんな上洛をしたか? という詳細は、別記事「なぜ信長の上洛戦は京都だけで終わらなかったのか|六角氏・三好勢を倒した全戦績」をご覧ください。
参考文献
黒田基樹『お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像』(2023年1月 朝日新聞出版)
宮島敬一『浅井氏三代 (人物叢書 新装版)』(2008年2月 吉川弘文館)
日本史史料研究会/渡邊大門『信長研究の最前線2 (歴史新書y)』(2017年8月 洋泉社)
