実績はありながら、名声不足であまり目立たない――そんな寂しい歴史キャラはいつの世も存在します。
例えば毛利家の穂井田元清などはその一人でしょう。
普段は三本の矢(毛利隆元・吉川元春・小早川隆景)にスポットが当たりすぎて、毛利元就の四男・元清を知ってる人は結構少ない。
しかし実際は有能で毛利家にとっても欠かせない人物でした。
これとよく似たケースが織田家の家臣団でも見られ、絶体絶命ピンチの信長を救ったにもかかわらず、その功績をほとんど知られないままの武将がいます。
朽木元綱(くつきもとつな)です。
石田三成や徳川家康ファンにとっては【関ヶ原の裏切り者】としても知られる人物ですが、いったい元綱とはどんな人なのか?

その生涯を追ってみましょう。
将軍奉公衆の名門一族に生まれた朽木元綱
朽木元綱は天文18年(1549年)、朽木晴綱(くつきはるつな)の子として生まれました。
母は飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)の娘とされています。
飛鳥井雅綱は和歌や蹴鞠を得意とする公卿(高ランク貴族)で、そんな貴族の娘が嫁いでくるほどですから、朽木氏ってもしかして名門なのか?
そう思われましたらご明察。
朽木氏は「近江国佐々木荘」という場所を本拠とした「近江源氏」の一族をルーツとし、鎌倉時代以降になると「近江国朽木荘」を支配して歴史に名を残しました。
佐々木氏は近江国の守護を務めたこともあり、朽木氏はその庶流になりますね。
後に、足利尊氏が鎌倉幕府を打倒し室町幕府を開く際には、後醍醐天皇に反発する尊氏に同調し、各地で戦功をあげて足利将軍家との繋がりも築きました。

広島県尾道市の浄土寺に伝わる足利尊氏肖像画/wikipediaより引用
結果、朽木氏は将軍家に「奉公衆」という役職で代々仕えることになるのです。
要は、その時々の将軍家から厚い信頼を受けていた朽木氏ですが、例えば『信長の野望』などの戦国ゲームでは『朽木元綱の名前は聞いたことあるけど顔は思い出せない……』といった存在になりがちではありませんか?
実は名門一族だったなんて意外かもしれません。
近江に拠点があり浅井氏と無関係ではいられない
しかし、世が戦国時代に突入していくと、肩書など通用しない殺伐とした世界へ進んで参ります。
朽木元綱の主家である足利将軍家の権力も目に見えて弱体化。
それでも一定の勢力を維持していた朽木氏は、1528年(享禄1年)に12代将軍・足利義晴を、1551年(天文20年)には13代将軍・足利義輝を朽木谷に匿うなど、奉公衆の一員として落日の室町幕府を支えておりました。
そして次第に朽木氏は、否応なく「近江の戦火」に巻き込まれていくのですが……その際に思い出して欲しいのが【近江を代表する戦国大名】です。
そうです。
浅井長政です。
元綱も近江に拠点を置く以上、凄まじい勢いで台頭してくる長政と無関係ではいられなくなりました。

浅井長政/wikipediaより引用
義昭により朽木の地を安堵
浅井氏はもともと、近江守護の家格であった京極氏の一家臣に過ぎません。
それが京極氏の御家騒動などに乗じて勢力を拡大。
同じく家中トラブルでドタバタの六角氏(こちらも近江守護の家格)を尻目に周囲の支持を得て、いつしか近江を代表する大名へと成長しておりました。
あまり語られることはありませんが、浅井家も割と下剋上一家なんですね。
彼らと支配エリアの近い元綱は、永禄11年(1568年)、上洛を成し遂げた足利義昭により朽木の地を安堵されます。

足利義昭/wikipediaより引用
既にこのときの浅井長政は、織田信長の妹・お市と結婚し、織田家とも同盟を結んでいる最中。
当然ながら朽木氏単独で浅井久政・浅井長政の親子に敵うわけもなく、すぐさま戦意を失くして起請文を交わし、彼らの従属下に置かれます。
しかし、朽木氏と浅井氏の主従関係は非常に希薄だったと目されています。
勢力を拡大し続ける浅井も、朽木荘まで支配力を浸透させることができなかった。
かといって元綱も反抗的な姿勢を見せるわけでもなく「時勢を静観していた」という感じでしょうか。
実はこの朽木氏の浅井に対する冷めた感情が、織田信長の運命さえも大きく左右することになるのです。
浅井と織田の同盟
元綱の活躍に触れる前準備として、ここで少し浅井長政と織田信長の関係性について整理しておきたいと思います。
まず、尾張国を平定した信長は、美濃国の攻略を目論んで周辺勢力との同盟を模索していました。

難攻不落の名城で知られる稲葉山城(後に岐阜城)/Wikipediaより引用
そこで目を付けたのが近江の浅井氏。
信長はかなりの低姿勢で同盟の申し出を行います。
浅井家中は賛否両論で紛糾しながら、織田家との同盟が浅井にとって有利という判断で決着がつきました。
浅井氏との関係構築によって信長は美濃の斎藤氏や近江の六角氏を破り、上洛に成功。将軍義昭を奉じて悲願を果たします。
ところが、信長の天下統一は一筋縄では進みません。
信長が、将軍の名において全国の諸将に上洛を命じると、越前の戦国大名・朝倉義景がこれに応じません。信長は義景のこの行動を許さず、朝倉氏討伐のため越前へ出兵します。
信長の越前攻略については、途中まで非常に順調でした。
しかし、朝倉を滅ぼすのも時間の問題か……と思われた矢先のこと、予想だにしない裏切りにより窮地に立たされてしまったのです。
裏切りとは他ならぬ浅井長政でした。
信頼しきっていた長政が、あろうことか信長の背後を衝こうと出陣したのでした。
浅井勢が織田を裏切り出陣!
なぜ長政は信長を裏切ったのか?
浅井氏では、朝倉氏との同盟関係を重視せざるを得ず、やむなく信長を裏切る形になったと考えられています。

朝倉義景/wikipediaより引用
ともかく突然の裏切りにあった信長は、一転して絶体絶命の状況に追い込まれました。
織田軍はすでに越前の金ヶ崎城を攻略していましたが、長居しては浅井と朝倉の挟撃に遭って破滅を免れない状況。
信長は一目散に撤退を決断し、対朝倉の殿軍(しんがりぐん)として羽柴秀吉・明智光秀・池田勝正らを戦場に残しました。
一般的に【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦の始まりです。
ひたすら京都へと逃げる信長と、敵を一手に引き受けながら撤退していく殿軍。とにかく肝要なのは逃げ道の確保でした。
問題はそのルートです。
信長は越前から京都への撤退を模索しておりましたが、途中、浅井の支配下を通らなければなりません。
そうです。
その避難ルートが朽木元綱の支配するエリアにあり、朽木谷に居を構える元綱の動向が、信長の運命を左右するのは明白でした。
信長は命からがら【朽木越え】
元綱が信長を助ける義理はあるのか?
と、考えたときに影響してくるのが、元綱と長政の【希薄な関係】です。元綱には、以下のように信長を助ける理由がありました。
なぜ朽木元綱は信長を生かしたのか?
・そもそも浅井と朽木の仲が良好ではなかった
・将軍家と関係の深い朽木にとって、義昭を庇護する信長は味方の対象になる
・一説には松永久秀による説得もあった

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
かくして元綱の協力でなんとか逃走のできた信長。
命からがら京都にたどり着いたとき、従者はわずか十人ほどという壮絶な旅でした。
一連の行程は【朽木越え】という名称で現代まで語り継がれており、まさしく戦国時代を大きく左右した決断となったのです。
ただ、同じように苛烈な逃避行を強いられた徳川家康の【神君伊賀越え】と比べると、かなり知名度が低いですよね。
もしも大河ドラマ『麒麟がくる』で取り上げられたら一躍有名になるチャンスはありますが……。
信長の命を救った大恩人の割に……
元綱の尽力もあり、京へ逃げ帰った信長は反撃の準備を着々と整えます。
同年中には【姉川の戦い】で見事に勝利。
元綱は一応、幕府の奉公衆という立場にはありながら、徐々に信長へと接近していきます。
そして元亀2年(1571年)、信長の攻勢を受けて浅井氏配下の重臣・磯野員昌が佐和山城を出て信長に下ると、元綱は彼のもとに配属され、ついに信長の家臣になりました。
言ってみれば「信長の命を救った大恩人」の元綱。
さぞかし厚遇されるものかと思いきや、残念ながら彼の活躍はそれほど目立ったものにはなりません。
元綱の上司にあたる員昌は浅井氏時代から猛将として鳴らしており、信長の評価も非常に高かったのですが、その配下である彼の逸話は全くといっていいほど残されていないのです。一応、直臣のはずなんですが……。
天正6年(1578年)には、破格の待遇を受けていたはずの員昌が、信長の叱責によって出奔してしまいます。
員昌の養子として磯野家に入った津田信澄に家督を譲るよう強要された――なんて説もありますが、詳しい原因についてはわかっていません。

織田信長/wikipediaより引用
信長のもとで失脚 秀吉傘下で復活
元綱は、磯野員昌の所領を引き継いだ津田信澄に仕えて活動を再開します。
天正7年(1579年)には、丹波と近江の国境にある久多荘という地域の代官に命じられました。
しかし同年4月、元綱が「非分」を行ったという理由で突如代官の職を追われるという事件が発生します。
「非分」が具体的にどのような失態であったのか?
詳細はハッキリしませんが、言葉の意味するところから何かしらの「おごり」や「不正」があったのではないかと推測できます。
いずれにせよ、直臣でありながら目立った活躍がなく、さらに「非分」によって職を免じられていることを考えれば、元綱が信長に厚遇されていたとは考えられません。
そのまま織田政権が安定すれば、再び朽木元綱の名前が浮上する可能性は低かったでしょう。
しかし、時代はそうなりませんでした。そうです。天正10年(1582年)に……。
本能寺の変
天正10年(1582年)に【本能寺の変】が勃発。
その後は天下人となった豊臣秀吉に仕えて朽木谷の本領を安堵されます。

豊臣秀吉/wikipediaより引用
天正18年(1590年)には小田原征伐に従軍し、さらに文禄元年(1592年)には朝鮮出兵に備えて名護屋に入る(朝鮮には行かなかった)など、秀吉配下の家臣として活動しています。
豊臣政権の一武将としてはそれなりに評価されていたようで、文禄3年(1595年)には伊勢の安濃郡という場所に二千石を、翌年には朽木谷を含む近江の高島郡に九千二百石程度を安堵され、さらには高島郡にある秀吉直轄領の代官にも命じられました。
秀吉のもとでようやく日の目を見た元綱。
しかし、慶長3年(1598年)にその秀吉が亡くなってしまうと、世はにわかに戦乱の様相を呈してきました。
微妙すぎる関ヶ原での立場
慶長5年(1600年)、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍との間に【関ヶ原の戦い】が勃発しました。
元綱は秀吉の代官を務めるほど豊臣家と距離が近かったためでしょう。三成の率いる西軍に属すことを決め、脇坂安治・小川祐忠・赤座直保とともに大谷吉継隊に組み込まれました。
いよいよ決戦がスタートすると、早朝から壮絶な戦いが繰り広げられます。
しかし、戦の大きな転機となったのが、西軍所属のハズであった小早川秀秋による裏切りです。

小早川秀秋/wikipediaより引用
近年の研究ですと「小早川は開戦当初から裏切っていた」とも言われますが、ひとまず通説どおり小早川軍が大谷吉継隊に襲い掛かったとしましょう。
予期せぬ裏切りに一転して危機に陥ったかに思われた元綱でしたが、彼を含めた大谷隊の四人の将たちにはある「秘策」がありました。
実は、東軍に属する藤堂高虎の事前調略によって、東軍への寝返りを約束していたのです。
小早川の裏切りを「絶好の好機」とみなした彼らは、一斉に大谷吉継を裏切り西軍に牙をむきました。
裏切りの連鎖によって大谷隊は壊滅。
これが関ヶ原の戦い全体における東軍勝利の決定的な要因になった――と考えられています。
四将の裏切りは史実か否か
ただし、この「四将による裏切り」については、史実ではない可能性もあります。
藤堂家を中心に合戦の事績を記した『藤堂家覚書』という史料では、高虎が事前に調略した人物として「脇坂安治」と「小川祐忠」の名前しか挙げておらず、さらに彼が攻撃する方向にいた敵は上記の二人に加えて「大谷吉継」と「平塚為広」であったと書かれています。

藤堂高虎/wikipediaより引用
この記述を見る限り、同じタイミングで裏切ったとされる元綱と赤座直保の名前は一度も登場しません。
史料の性格上、高虎の功績を書き残すためのものでしょうから、仮に調略に成功して本当に裏切っていれば二人の名前も出てくるハズ。
また、他にも複数の有力な史料で「裏切り」については記載がありますが、裏切った武将の名は違えど元綱・直保の名前は確認できません。
以上の点から、二人の裏切りは信ぴょう性の低い二次史料や軍記物による裏付けしか得られておらず、確かな歴史的事実ということはできないでしょう。
ただし、そもそも我々の知っている関ヶ原の戦いに関する事実は日々書き換えられてていますから、今後、二人の裏切りを証明する研究が登場してきても何ら不思議はありません。
関ヶ原後は領地を減らされるも子孫は繁栄した
通説を信じるのであれば、関ヶ原の戦勝に大きく貢献したハズの元綱。
しかし、戦後処理の過程において領地の加増を受けることはできず、朽木谷を中心とする九千五百石余の本領を安堵されるにとどまりました。
それまで合計2万石程度を有していた元綱からすれば、功を褒められるどころか領地半減に等しい処置。
先の「本当は裏切っていないのでは」という説の説得力を高めます。
ちなみに、通説では「事前に裏切りを通告しなかったため」に罰を受けたと考えられていますが、正解はどちらなのか……。
結果的に勢力を落としてしまった元綱ですが、以後は江戸幕府に属する一将として列せられ、【大坂の陣】には徳川方として参戦。

この時点では徳川を選んでいることになります。
そして元和26年(1624年)に出家して「牧斎」と名乗り、隠居領として三千二百石余を受け取りました。
その後は余生を全うし、寛永9年(1632年)に84歳の生涯を終えました。
彼の死後、三人の息子たちに所領が分配されました。
三男の朽木稙綱は、徳川家光から厚く信頼されたといい、最終的に兄弟では一番となる常陸土浦藩3万石を有する大名に上り詰めます。
他の兄弟らも旗本として家を存続させたことから「戦国の勝者」とは言い過ぎにしても、立派な生き残りとは言えるのではないでしょうか。
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【参考文献】
『国史大辞典』
『日本大百科全書』
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
白峰旬『新視点関ケ原:天下分け目の戦いの通説を覆す(平凡社)』(→amazon)





