弘仁十四年(823年)2月26日は、嵯峨天皇の勅許により「比叡山寺」が寺号を「延暦寺」と改めた日です。
比叡山寺
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延暦寺
おそらく大多数の方が「最澄が開いて織田信長に焼かれたお寺」というイメージだと思うのですが、歴史あるお寺ですから、もちろん特筆すべきことはもっとたくさんあります。
信長の前にもガンガン攻め込まれています。
そして、その理由もあります。
本日は、日本史の中でもひときわ強い存在感を放つ比叡山延暦寺の沿革をみていきましょう。
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最澄「僧侶を育てたい」 奈良の寺「ダメー!」
延暦寺の大元は、開祖の最澄が20歳頃に作った草庵です。
その二年後、オオモノヌシ(大物主大神)を招き、もともと比叡山で信仰されていたオオヤマクイノカミ(大山咋神)とともに祀り、小さな寺院を建立したのが正式な開基とされています。
ときの天皇だった桓武天皇が最澄に帰依したこと、京から見れば北東=鬼門であることから「国家鎮護」を担う道場として栄えていくことになりました。
そして最澄が唐に渡り、大陸の仏教を学んで持ち帰ります。
最澄は天台宗を開くと共に、「延暦寺で大陸の仏教に関することを教え、優れた僧侶を育てて日本各地の民衆を救いたい」と考えるようになりました。
しかし、当時の僧侶養成は奈良の東大寺、筑紫(現・福岡県)の観世音寺、下野(現・栃木県)の薬師寺しかできないことになっていました。
勝手に僧侶を養成してはいけなかったのです。
教育できる権利を「大乗戒壇」というのですが、最澄はこれを延暦寺に認めてもらおうと頑張ります。
結果、奈良から大ブーイングを受けたため、最澄の生前には叶いませんでした。
ときの年号をとった「延暦寺」の寺号と、大乗戒壇の許しが出たのは最澄入寂(にゅうじゃく・僧侶が亡くなること)後のことです。
鎌倉仏教の開祖たちは大半が延暦寺で学んでる
その後は最澄の願い通り、延暦寺は優れた僧侶を数多く輩出しました。
最澄の実質的な後継者といえる円仁(慈覚大師)・円珍(智証大師)をはじめ、いわゆる「鎌倉仏教」を開いた僧侶のほとんどが延暦寺で学んだ人です。
日本史の暗記ポイントの一つなので、ついでにまとめておきましょうか。
延暦寺で学んだ鎌倉仏教の僧侶たち
例によってだいぶ誇張していますが、だいたいこんな感じです。
鎌倉仏教としては「踊り念仏」で有名な時宗の開祖・一遍がいますね。

一遍上人絵詞/国立国会図書館蔵
初めておみくじを作ったのも延暦寺!?
この他に、延暦寺関連で有名な著作を残した人としてはこの二人がいます。
延暦寺の超有名人
慈円は親鸞の弟子であって延暦寺で学んではいなさそうですし、歎異抄の作者は唯円以外の説もあるのですが、一か所にまとまってると覚えやすいかと思うので、ついでに書いてみました。
ちょっと変わったところだと、おみくじを初めて作ったといわれている人が延暦寺のトップ(=天台宗で一番エラい人を“天台座主”と言います)だったりします。
平安時代の良源という人で、慈恵大師・元三大師という大師号から「厄除け大師」とも呼ばれています。
こちらのほうが有名ですかね。
さて、話を延暦寺へ戻しましょう。
円仁と円珍の仲間割れ そして武装化は進む
こんな感じで名僧を育て上げた延暦寺は、次第によからぬ傾向も現れ始めました。
最澄の弟子だった円仁派と円珍派が仲間割れしてしまった上に、実力行使のために武装化を図っていくのです。彼らはやがて僧兵となり、延暦寺の性格を大きく変えてしまいました。
もちろん真面目に修行や学問に励んでいた僧侶もいたのですが……。

琵琶湖から見た比叡山/photo by Rock.jazz.cafe wikipediaより引用
最澄が亡くなって200年ほど後には、当時、実質的な権力を握っていた白河法皇からも疎んじがられます。
「賀茂川の水と、双六の賽、そして山法師(延暦寺)だけは私にもどうにもできない」(意訳)
と言われたという有名な話がありますね。

白河天皇/wikipediaより引用
なんせこの頃の延暦寺の僧侶はひどかった。気に入らないことがあると文字通り神輿(みこし)を担いで突撃してきて、自分たちの要求を押し通すのです。
武力をほとんど持たない朝廷としては機嫌を取るより他にナシ。
水戸黄門の印籠みたいなもので「神仏の意向が目に入らぬか!!」というわけでした。この時点で仏罰不可避の予感が……。
数多の名僧を輩出すると同時に、武装化が進んでいたというのは、なんとも摩訶不思議ですね。
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