隠元隆琦/Wikipediaより引用

寺社・宗教

明の僧侶・隠元隆琦 いんげん豆以外に何を日本へ持ち込んだ?

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ちょっと前に「自分探し」なんてものが流行りましたが、意図的に探すよりも、ふとしたキッカケで生きがいが見つかることもありますよね。
探すのをやめたときに何たらという歌もありますし。

今日は、そんな感じでたまたま来日した人のお話です。

万暦二十年(西暦1592年、日本では文禄元年)11月4日は、明の僧侶・隠元隆琦(いんげんりゅうき)が誕生した日です。

中国の僧侶というと平安時代以前にやってきたイメージが強いですが、この人は江戸時代に来日しています。

どんな経緯だったのか。
順を追って見てみましょう。

 

長崎の出島に誘われた隠元隆琦

隠元は、中国の南海岸沿いにある福建省に生まれました。
台湾と海を挟んで向かい側あたりの地域です。

10歳の頃に出家を志すというなかなかの世捨て人ぶりでしたが、母親に止められて断念しています。
父親が行方不明になっていたそうなので、働き手がいなくなることを恐れたという理由もあったのでしょうか。

それでも23歳のときにはお寺へ住み込んで奉仕活動を始めました。

正式に僧侶の仲間入りを果たしたのは、29歳の時のこと。
その後はお師匠様の僧侶のお供をしたり、住職を引き継いだりと仏道に則った暮らしをしています。

おそらく、順当に行けばそのまま中国で一生を送っていたのでしょう。

日本に来たきっかけは、長崎・出島からのお誘いによるものでした。

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皆さん御存知の通り、当時の日本はほぼ鎖国状態。
交易を許されていた中国やオランダでさえ、出島からしか出入りできませんでした。

出島周辺はオランダ人や中国人が住みやすいような施設が整えられており、その中に中国人の僧侶を住職とするお寺もあり、候補として隠元に白羽の矢が立ったのです。

 

いんげん豆は隠元が持ってきた!?

当初は隠元の弟子を呼ぶ予定だったそうです。
が、渡航中に船が沈没してしまったため、隠元に話が届いたのだとか。

この頃は明王朝から清王朝に変わったばかりで、国内でもいろいろと問題が起きていたので、かえって良かったかもしれません。

敬虔な仏教徒である隠元なら、そんな俗な理由で渡航はしなかったでしょうけれども。弟子が亡くなってますし。

そして二十人ほどの弟子を連れ、いよいよ隠元一団は来日しました。

そのうち半分は翌年に帰国しているのですが、日本の水が合わなかったんですかね。
遣隋使・遣唐使の時代よりはマシとはいえ、航海はまだまだ命がけの時代に、二回も渡航するというのはなかなかの度胸という感じがします。

このとき隠元が日本に持ってきたのが、そのものズバリな名前の「いんげん豆」だったといわれています。

赤いんげん豆によく似た「藤豆」だったという説もありますが、たぶん当時の日本人はあまり差を感じなかったのでしょうね。

ちなみに、いんげん豆は南米、藤豆はアフリカ原産だそうです。

よく似ているのに原産地が全く違うというのは不思議なものですが、2億5000万年前はどの大陸もくっついていたし、あるいは渡り鳥が胃袋に入れて運んだのかもしれないし、何らかの理由があるかもしれません。

 

人知れずヒッソリと相伝されている「煎茶道」

他にも、隠元を発祥とするものが二つあります。

煎茶道と普茶料理です。

仏門の人が飲食物ばかり持ち込んでいいのかとちょっとツッコミたくなりますが、お坊さんだって霞を食べて生きているわけではないですからね。むしろ、生臭いものを食べられないがゆえにいろいろ工夫したわけですし。

煎茶道とは、一般的にイメージする抹茶を使った茶道とは違い、煎茶を使う茶道です。

隠元の時代に中国で生まれたもので、いわば当時の最先端の流行でした。
今で言うならルイボスティーとか杜仲茶みたいな立ち位置ですかね。この辺は美容目的で流行ったものですけれども。

江戸時代は煎茶道の中でもいろいろな流派が生まれて盛んになり、明治維新の際に「西洋文化バンザイ!!」という雰囲気になったせいで、下火になってしまったのだとか。

現在でも一般社団法人「全日本煎茶道連盟」という団体があるので、続いてはいます。

一般的には煎茶というと「道」として習うよりも、家庭で気軽に飲むものというイメージが強いですが、ご興味のある向きは先生のところへ通うのもいいのではないでしょうか。

 

普茶料理が宇治市に多い理由とは?

もうひとつの「普茶料理」というのは、中国風の精進料理のことです。
日本の精進料理では一人につき一つの御膳を使いますが、普茶料理では四人で大皿を囲み、取り分ける形式になっています。

また、ごま油など油脂を多用すること、お茶も一緒に楽しむことなどが特徴です。
こう聞くと、なんとなく中国っぽい感じがしますね。

普茶料理の例。なんだか豪勢に見えますが、量は少なめっすね/Wikipediaより引用

詳細は後述しますが、隠元が京都府宇治市にお寺を開いたため、現代でも宇治市周辺に普茶料理を味わえるお店が多いようです。

また、隠元の説法は僧侶にも世俗の人々にも受け入れやすいものだったらしく、着任したお寺は引きも切らずという状況になりました。ときには数千人も集まることがあったようです。
現代のイメージだと、何かのデモとか政治家の街頭演説でもなかなかないような規模ですよね。

当然のことながら幕府も「あの坊さん放置するとヤバくね?」と警戒し始めます。

しかし実際に何かやらかしたわけではなかったので、外出禁止と「人を集めるのは200人まで」と申し付けられるだけで済みました。

もともとそんなに自由には出歩けなかったでしょうし、千人単位の人がしょっちゅう来てたらお寺も大変ですから、むしろ隠元たちにとってはメリットのほうが大きかったかもしれません。

 

「大光普照国師」号が送られた翌日、亡くなられた

当初隠元の日本滞在は三年間の予定だったのですけれども、上記の経緯からか、日本側に引き止められて永住することになりました。

日本のお坊さんがときの徳川四代将軍・家綱に引き合わせ、お寺のための土地をもらってまで止めたそうです。なかなか大掛かりですね。

それが現在の京都府宇治市でした。

隠元はもともと臨済宗のお坊さんだったのですけれども、日本の臨済宗とは異なる点がいくつかありました。
そのため「ここでは違う派を名乗ったほうがよさそうだ」と判断し、宇治で黄檗宗(おうばくしゅう)という宗派を作り、黄檗山(おうばくさん)萬福寺というお寺を開きました。

萬福寺内(の売茶堂/photo by Opqr Wikipediaより引用

京都に本山があるということは、皇族や大名、商人たちとの関係もできてくるわけで、隠元の存命中にある程度社会的地位を持つ人が黄檗宗に帰依しています。
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とはいえ、萬福寺を開いた時点で70歳近くになっていたため、住職の役は三年で引退しています。

仏様から何か啓示でもあったのか、亡くなる年のお正月には身辺の整理を始めていたそうです。
そして4月に後水尾天皇(この時点では法皇)から「大光普照国師」号が送られた翌日、静かにこの世を去りました。

当初、隠元は来日や永住に気が進まなかったかもしれません。
が、彼がもたらしたものが現在の日本で身近になっていることを考えると、来るべくして来たという感じがしますね。

縁はいつどこでできるかわからないものです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
隠元隆き/Wikipedia
普茶料理/Wikipedia

 



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