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【松平信綱】
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能や茶などの芸能や遊びをしない真面目人間
こうして軍事も市政もこなす松平信綱ですが、もちろん欠点もありました。
人付き合いがあまり得意ではなかったのです。
当時の大名の趣味として好まれていた能や茶道、歌、舞など文化的なことに全く興味がなく、兵法にも通じるはずの碁や将棋もたしなまなかったのです。
そのためか「デキるけどつまんねー奴」という評価をされてしまうことも。
一見ただの悪口に見えますが、大名の間では
趣味を通して幕閣同士や大名・旗本たちと親交を保っておき、いざというとき頼みにする
というのが江戸時代のセオリーでした。
しかし、同時にそれは癒着や賄賂の原因にもなりがちですので、信綱はその点を嫌ったのかもしれません。
また、慶安四年(1651年)4月20日に徳川家光が亡くなったとき、殉死しなかったことも悪評の一因になってしまいました。
そもそもこれは家光が信綱に対し、
「お前には(4代将軍)家綱の補佐を頼みたいから、死んでくれるなよ」
と命じたからだったのですが、当時は
「お世話になった主君が亡くなるのなら、お供をして当然」
という考えが強かったため、ディスられてしまったのです。

徳川家綱/wikipediaより引用
信綱自身も「先代様に受けたご恩をもって、徳川家を支えていかなければならん」と考えており、面と向かって非難されたときはそのように反論しています。
もう少し後になった家綱~綱吉の時代には「殉死禁止」が法的に定められ、以降、この点で信綱をけなす人はあまりいなかったようです。
まぁ、人間多少の欠点がないと「作り話か?」と疑いたくなってきますから、無趣味なり何なり、マイナス要因があったほうがリアルではありますよね。
家綱時代にも働きまくる
徳川家綱時代も松平信綱の活躍は続きました。
幸いにして家光の異母弟で家綱にとっての叔父・保科正之もいましたので、批判や嫉妬が信綱に集中することが防がれます。

保科正之/wikipediaより引用
また、家綱がまだ幼かった上に、功を逸るタイプではなかったことも幸運だったでしょう。
他にも井伊直孝や酒井忠勝などの名臣もおり、世代交代はつつがなく行われたかに見えました。
そこに水を差すのが、慶安四年(1651年)7月2日に起きた【由比正雪の乱(慶安事件・慶安の変)】や、明暦三年(1657年)に起きた【明暦の大火】です。
さらに万治三年(1660年)6月18日には
・雷火により大坂城の塩硝蔵が爆発
という珍事が起き、この処理も信綱に任されています。
塩硝というのは、いわゆる爆薬のことです。落雷による高温で爆発したものと思われます。
他にも
など、様々な行事や取り決めで、多忙を極めていた信綱。
過労で早死してもおかしくなさそうですが、信綱が亡くなったのは寛文2年(1662年)3月16日のことでした。
享年67。
当時としては、なかなか長生きの部類ですね。
これだけ多忙で活躍をして、しかもこの歳まで目立った大病もなく、天寿を全うしたというのは凄い。
何か独自の健康法でもあったんですかね。
特段書き残されていなさそうですので、彼からするとごくごく当たり前な些細なことの積み重ねだったのかもしれません。
そういうことこそ、実は他者の参考や教訓になることがあるのですが。
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長月 七紀・記
【参考】
吉村豊雄『原城の戦争と松平信綱』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典