九戸政実や村上義清など、『ご当地マイナー武将』を思いつくままにピックアップさせていただいている当連載。
著者の「れきしクン」と申します。
今回の注目は、明暦元年(1655年)2月14日が命日である戸田氏鉄(とだうじかね)さんです!
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大垣城の氏鉄像は超COOL!
古い話で恐縮ですが、2019年10月6日に墨俣城(岐阜県大垣市)で開催された『すのまた秀吉出世まつり』に私も出演させていただき、30分ほどのトークイベントを担当いたしました。
秀吉の出世のキッカケとなった伝説を持つ墨俣城。
最寄り駅は「大垣駅」で、付近には「関ヶ原の戦い」の際に石田三成ら西軍が、合戦の前日まで本陣としていた「大垣城」があります。
城跡が整備されて、現在は「大垣公園」となっているのですが、その地に一体の銅像が建てられています。
その人物こそ、戸田氏鉄さんです。
おそらく歴史好きの方でも、氏鉄さんがどんな人物なのか、ご存知の方は少ないでしょう。
何より、こうして偉そうに語っている私も、歴史好きになりたての時は氏鉄さんの下の名前すら読めませんでした。
「うじてつ」じゃなくて「うじかね」なんですよね。
今回は、そんな知られざる名将・戸田氏鉄さんをご紹介!
三英傑たちの孫世代
戸田氏鉄さんは、いわゆる「譜代大名」です。
譜代大名は、関ヶ原の戦い前に徳川家康の家臣となり、江戸時代に大名となったお方を指します。
生まれは家康と同じく三河国(愛知県)。
天正4年(1576年)に誕生しています。
徳川家康の32歳下で、氏鉄さんのタメ歳には薩摩藩初代藩主の島津忠恒(改名して「家久」・悪い方の家久と呼ばれることも笑)などがいます。
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島津忠恒/wikipediaより引用
「あと10年早ければ天下を狙えた……」
なんて売り文句の伊達政宗でさえ永禄10年(1567年)生まれですから、氏鉄さんは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康らの次々世代ポジションになるかと思います。
氏鉄さんは、父の戸田一西(とだかずあき・お父さんの名前の読みもムズい!)が徳川家康の重臣でした。
そのため若い頃から家康の小姓に抜擢され、1603年(慶長8年)に父が死去して家督を継ぐまで、家康の側近くに仕えていたようで、なかなか興味深い【証拠】が残っています。
関ヶ原合戦図屏風に描かれた氏鉄像は???
証拠とは、江戸時代後期に描かれた『関ヶ原合戦図屏風』です。
関ヶ原の戦いを語る時に欠かせないこの屏風。
実は氏鉄さんも描かれています。
しかも、場所は家康の本陣!
屏風の右下になるのですが……以下に拡大版を置いてみますね。
ほら!氏鉄さんがいるじゃないですか!
緑の◯で囲まれている人物です。
しかも、その隣には「明智光秀と同一人物!?」なんて説もある怪僧・南光坊天海までいるんですからスゴい!
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南光坊天海/wikipediaより引用
この時、数え歳で25歳だった氏鉄さんは、まさに家康の超側近だったことが窺えます……と言いたいところですが、実はこの屏風、氏鉄さんの死後100〜200年以上も経過してから描かれております。
どうやら後に藩祖となった氏鉄さんの活躍をアピールするため、大垣藩関係の方がオーダーした作品という指摘も。
ただ、これは単純な捏造とかではなく、氏鉄さんが江戸時代も大垣の人々に愛されていたことを示すものなのではないかと思うわけです。
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