鎌倉時代から守護として薩摩に根を張り、戦国時代には島津四兄弟が大活躍しております。
とりわけ関ヶ原の戦いで絶体絶命のシチュエーションから井伊直政の部隊を駆け抜け、薩摩に帰還した島津義弘(通称・鬼島津)の【島津の退き口】や、捨て身でそれを助けた島津豊久などはファンも多いことでしょう。
男らしく義に厚く、パワーも満点、薩摩隼人!
と、今でも魅力的なワケですが、そんな島津家の中にもヤバイ方はおられます。
しかも道をハズレた不良息子などではなく、れっきとした当主で、さらには鬼島津の息子さんだというから二度ビックリ。
それが1638年4月7日(寛永15年2月23日)に亡くなった島津忠恒です。
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次男のお家の三男坊 それでも繰り上がり当主だよ
島津忠恒は天正4年(1576年)、島津義弘の三男として生まれました。
父の義弘は島津四兄弟の次男です。
四兄弟の長男で当主だった島津義久に息子が居なかったため、島津家の家督は父の義弘が継ぎ(義弘を飛ばして直接忠恒という説もあり)、その後は次兄である島津久保が義久の娘と結婚して島津家を継ぐ予定でした。
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要は忠恒に跡を継ぐ予定はなかったワケで。
スッカリ気は抜け、酒と蹴鞠にはまってのグータラ生活を送り、親から叱られるような御仁でございました。
しかーし、文禄の役で朝鮮に行った兄・久保が病没すると事情は一変、秀吉の指名もあって忠恒が後継者になります。
そうなると俄然張り切り【慶長の役】では鬼神の如き大活躍してしまうのですから、さすが忠恒も島津の一族であります。能力は高いんですね。
ただ、残念なことに、当主となっても元の性格が直ることはなかったようで……。
朝鮮出兵の前線基地・名護屋城では、蹴鞠場づくりをしたり、忠恒の横暴に耐えかねた兵が逃げた記録が残るなど、なかなか香ばしい記録が残されております。
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重臣を殺し、その息子も狩りの最中に間違って……
さてさて忠恒の本領発揮は帰国後です。
まずは島津の家臣でありながら、秀吉に可愛がられていた
・家老の伊集院忠棟を自らの手でブッコロ!
父親を殺された伊集院忠真は薩摩に帰って内乱【庄内の乱】を起こします。
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これに対し忠恒は一旦和睦。
そして
・伊集院忠真を狩りの最中に射殺
・ついでに家来衆もブッコロ!
一応、手が滑って起きた不幸な事故扱いとなっております……(゚A゚;)
ちなみに射殺された忠真は、忠恒の妹婿でもありました。身内やないかい。
さらには、だいぶ後のことになりますが、自分と対立した義久の家老・平田増宗も暗殺して子孫もミナゴロシしております。やっぱり怖い殿様なんです。
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