一般的には発明家として知られ、「丑の日」に鰻を食べる宣伝を思いついたことでも割と有名な平賀源内。
当時の文人はマルチタレントが基本であり、現代のように理系・文系・芸術系といった分類はあまり意味がありません。
本草学者として、植物から鉱物にまで関与する。
新たな焼き物や絵画、発明品を生み出す。
作家として、春本から戯作本まで手がける――。
これだけ幅広い活動を手がけていれば、それを慕って弟子が集まる。
文化7年(1810年)12月4日は、そんな平賀源内の弟子の一人である森島中良(もりしま ちゅうりょう)の命日です。
蘭学者で戯作者でもある、当時らしい文人。森島の事績や生涯を振り返ってみましょう。
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奥医師・桂川家に生まれる
平賀源内の功績といえばエレキテル!という方が多いかもしれません。
しかし、こと知名度やインパクトで言えば『解体新書』もなかなかのものであり、源内はその発刊に関わっていました。
ご存知、杉田玄白や前野良沢らの手により翻訳と執筆が進められた『解体新書』。
みなもと太郎さんの漫画『風雲児たち』で奮闘っぷりが描かれ、2018年には三谷幸喜さん脚本の正月時代劇『風雲児たち~蘭学革命篇~』として放送されています。
このドラマには迫田孝也さん演じる桂川甫周が登場していましたが、実は森島中良はその弟でした。
長男の甫周が宝暦元年(1751年)で、次男の中良が宝暦4年(1754年)あるいは宝暦6年(1756年)生まれ。
桂川家は江戸幕府6代将軍・徳川家宣の侍医をつとめて以来、代々幕府の奥医師を担ってきた名門です。
幕府の奥医師ともなると、保守的で漢方に固執する者もいました。
しかし桂川甫周は柔軟に蘭学に取り組み、『解体新書』の発刊にも立ち会うことができました。
森島中良は、桂川家の元の姓が森島だったため、その姓を用いています。
奥医師としての家業は兄が継ぎ、弟は兄を助ける立場でした。
兄が『解体新書』発刊に奔走しているとき、弟はそんな兄を家で労っていたことでしょう。
というのも中良は生涯、生家で過ごし、未婚とされるのです。妻や子孫と思われる記録はあり、内縁の妻子かもしれません。
江戸時代の次男以下はこうした境遇になることがままありました。長男が家を継ぎ、他家に養子へ出されるでもなければ、他に行く宛などありません。
泰平の世が長続きして、人口も増えている。とはいえ人口増大には限界がある。
中良のような次男以下の人物は日本中どこにでもいたのでした。
平賀源内に入門し 戯作者の道へ
森島中良は幸い、兄の交際範囲と親しくすることができました。
家業を継がないとなれば、時間は自由に使える。
『風雲児たち』の世界を目の当たりにすることができる、いわば最高の環境にいたともいえるのです。
そして明和元年(1764年)頃、中良は平賀源内に入門します。
まだ10歳頃のことであり、源内も何かと多忙ですので、特に何か実績を残したわけではありません。
蘭学者として、戯作者として、あるいは狂歌師として。
本格的な創作活動が見られるようになったのは、弟子入りから約15年が経過したころ、安永8年(1779年)とされています。
ただ、運の悪いことに、この頃の源内は晩年でした。
彼は自分自身が多才であることは把握していながら、結局、何も成し遂げられなかったとして落ち込み、精神状態がかなり不安定。
そんな師匠とは、交流も途絶えがちになってしまいます。
中良は、師匠と話をしたい、師匠から学びを得たいと望んでいましたが、ついにその願いは叶いません。
源内が刃傷沙汰を起こして小伝馬町に投獄され、そのまま獄死を遂げてしまったのです。
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