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【森島中良】
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寛政の改革で筆を折ることに
森島中良は、その後も戯作者として活動を続け、さらには蘭学書も発行しました。
しかし時代は変わります。
経済を重視し、開明的であった――『風雲児たち』でも、そんな風に再評価されていた田沼意次が失脚したのです。
次に幕政を取り仕切ったのは松平定信でした。
天明7年(1787年)に始まった【寛政の改革】は、厳しさを増してゆきます。
庶民の娯楽となっていた黄表紙は禁止。
さらに深刻な弾圧となったのが【蘭学】です。
【寛政の改革】の一環として【寛政異学の禁】があります。朱子学を正統とし、それ以外の陽明学、蘭学等の学問を禁ずる政策です。
田沼時代にあれほど花開いた蘭学は、一転して禁じられ、中良のような文人にとっては致命的な大打撃となりました。
その結果、中良は筆を折ることを決心。
林子平のように幕府から目をつけられていた文人とも交流を断ちました。
松平定信失脚後は一時作家として復帰し、寛政年間には白河藩に出仕したともされます。
その後、死の前年とされる文化6年(1809年)まで作家活動を続けたと記録されています。
恋川のようにはなりたくなかった?
森島中良は、創作や娯楽に対し、政治がどれだけの影響を与えるか、非常にわかりやすい例です。
この時代、経済や流通が発達し、黄表紙のような娯楽本が売れるようになり、さらには海外事情を知りたいという欲求が湧き上がってきました。
松平定信の改革は、そうした時勢の流れに歯止めをかけようとし、失敗しただけのように思えます。
時代の勢いは田村意次時代に定まっていて、それを今さら逆流させようとしたところで結局はうまくいかなかったのです。
もしも【寛政の改革】がなかったら――中良の一生を振り返ると、どうしてもそう思えてきます。
彼が政治に抵抗するなく筆を置いた理由も理解できます。
幕府から睨まれ、自害したとされる恋川春町のようにはなりたくなかったのでしょう。
しかし、後世まで残る作家としての評価をふまえると、頑ななまでに粘る方が名声が残りやすいと言えなくもありません。
再評価が進んでいる田沼意次とその時代。その後に訪れた影の部分を知ると、より納得ができるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
新戸雅章『平賀源内』(→amazon)
土井康弘『本草学者平賀源内』(→amazon)
他