しかし、家名を残すとなると状況は非常に厳しく、信長、秀吉、家康の時代を通じ、多くの一族が表舞台から消え去っていきました。
中でも浮沈の激しかったのが北条家(後北条家)ではないでしょうか。
というようにわずか五代で勢力を急拡大させながら、結局は豊臣秀吉の大軍に攻められ、戦国大名としての北条家は滅亡してしまいます。
関東一円を広く治めていた大大名が、なぜそんな憂き目に遭ってしまったのか?
家康を通じて様々な交渉が進められてはいましたが、その最中に直接的なキッカケとなったのが【名胡桃城事件】です。
「なぐるみじょう」と読み、天正17年(1589年)11月24日、秀吉によって正式に「違反」と認定され、後の小田原征伐(北条征伐)が決定しました。
今回は、この【名胡桃城事件】に注目してみましょう。
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本能寺の凶報がもたらされ東も大混乱
名胡桃城事件とは何なのか?
一言でまとめるとこうなります。
【北条家が、真田家から名胡桃城を奪った事件】
それが、どうして【秀吉の小田原征伐】にまで話がデカくなってしまうのか?
順に振り返ってみますと……。
時は天正12年(1582年)3月。
織田信忠が武田家を滅亡させると、その年の6月、今度は【本能寺の変】が勃発して織田信長・信忠親子が敗死。
突然、主君のいなくなった畿内や中部エリアは大混乱に陥りながらも、秀吉の登場によって、畿内周辺は一応の収束をみます
しかし、関東甲信越は大変な事態に陥りました。
天正壬午の乱へ発展
関東甲信越地方といえば旧武田領にあたります。
具体的には
・信濃(長野)
・甲斐(山梨)
・上野(群馬)
の三カ国。
この地をめぐって
・徳川家康
・北条氏政
・上杉景勝
などの大大名たちが土地を奪い合い、その狭間にいたのが、信濃や上野に影響力を持つ真田一族でした。
当主は真田昌幸です。
彼は自領を守るため、北条、徳川、上杉らと次々に手を組んだり離れたりして、どうにか独立勢力としてのポジションをキープします。
あまりに節操なく立場をころころ変えるので【表裏比興の者】などとディスられたりするのですが、なりふり構っていられない状況でした。
この武田家の所領をめぐる争いは【天正壬午の乱】と呼ばれ、真田家は、徳川、上杉、北条を相手にした厳しい戦いで生き残ったのです。
武田滅亡後の領地を奪い合う「天正壬午の乱」徳川・上杉・北条に真田を交えた大戦乱
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しかし、後を引く問題もありました。
それが沼田領問題です。
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