華奢なタイプの人が男らしい性格だったり。
ムキムキマッチョが優しい乙女趣味な一面を持っていたり。
外見と内面のギャップは魅力的な個性となり得ますが、戦国時代で言えば公家なんかもそうした対象になりやすいかもしれません。
慶長十九年(1614年)11月25日は近衛信尹(このえ のぶただ)の命日です。
父親は大河ドラマ『麒麟がくる』でも重要な役を担っていた近衛前久。
その息子である信尹の生涯を見て参りましょう。
摂関家の伝統を潰したと批判される近衛信尹
戦国~江戸時代の公家というと、教科書ではひたすら影が薄いどころか存在しなかったかのような扱いですよね。
しかし、一人ひとりに着目してみると、なかなか面白い人生を歩んだ人もいて、近衛信尹もその一人。
なんせ公的な人生のスタートである元服の際、冠を被せる「加冠役」が織田信長でした。

織田信長/wikipediaより引用
公家にはちょくちょく「信」の字が付く人がおりますが、彼の場合は信長から一字もらったことになっています。
これは時勢上の問題と、小さい頃から父親の近衛前久(さきひさ)と共に地方へ行くことが多かったので、公家同士より武家との付き合いのほうが気軽だったという理由もあるようです。
父の前久は、織田信長や上杉謙信らと親交を持ち、武術にも長けていたスーパー公務員ならぬスーパー公家様でした。
そんな父親の地位だけでなく能力も授かったのか。
信尹は15歳で内大臣、20歳で左大臣と順調に出世し、その流れで関白の座にも就こうとしておりましたが、ここで暗雲がたちこめます。
日の出の勢いにあった豊臣秀吉&豊臣秀次にその座を譲ることになったのです。
なぜ秀吉が関白となったのか。
以下の記事にその詳細がありますが、
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関白相論|なぜ秀吉は将軍ではなく関白になったのか 強引な手口で公武政権樹立
続きを見る
ともかくその煽りを食らった信尹は、公家の間で「摂関家の伝統を潰した」とそしられ、孤立して心を病み、27歳で自ら左大臣を辞職することにもなります。つ、つらい……。
「ならば武士になってやる」と朝鮮出兵に志願
普通の人なら、そのままいろいろな意味で真っ逆さまになるでしょう。
信尹はここで「何がどうしてそうなった」とツッコミたくなるような行動力を発揮します。
なんと、秀吉の朝鮮出兵に際し、名護屋城まで行ってしまったのです。
「関白になれないならいっそ武士になってやる」と思っていたようです。すごい飛躍ですね……。

ドローンで空撮した名護屋城の本丸と遊撃丸
当然のことながら後陽成天皇や菊亭晴季(信長と仲良かった貴族)に怒られた上、味方したはずだった秀吉にまで叱られ、結局、薩摩に三年間の流刑となりました(´・ω・`)
29歳のときのことです。
なんだか「遅すぎた中二病」を発揮していた感じですね。
流罪先の薩摩にすっかり馴染んでしまった
薩摩へ行ってからの信尹は、さすがに落ち着きました。
罪状としては流罪ですけれども、公家の流罪って基本的に「数年、京から離れて頭冷やしてこい」(超訳)という意味合いが強いので、空気を読んで気分を切り替えたのでしょう。
お供も45人(!)いたようなので、流刑というより公認バカンス的な?
かつて父も薩摩へ行っていたことがあるせいか。
信尹は刑期中、薩摩の当主・島津義久に厚遇されています。
当時の一般的な公家からすれば薩摩は僻地にも程がある場所だったでしょうが、幼い頃から上方以外での場所に親しんでいた信尹にはあまり気にならなかったかもしれません。
薩摩のあちこちを散策しては和歌を詠み、人々に書道や絵、御所言葉など都の文化を伝えています。
暮らしていた屋敷には、信尹手植えと言われている藤の木が今もあるとか。
京に戻れることになったときにも「あと1~2年いたい」と手紙に書いていたくらいです。罪人とはいったい……うごごごごご。
関ヶ原でヘタ打った島津の所領安堵に一役買う
あまりゴネているわけにもいかないので、最終的には命令通りきちんと京都に戻りました。
31歳の時に帰京しているので、何らかの理由で刑期が短くなったようです。
「だめだこいつ……放置してたら永遠に帰ってこねえ」とか思われたわけではないでしょう。たぶん……。
予定より早く帰ることになりながら、信尹は島津家との連絡を続けておりました。
関ヶ原の際は、撤退する島津家の家臣を助けて、薩摩に帰れるよう計らったり、徳川家と島津家の間に立って、島津家の所領安堵に一役買ったり。
連歌を通じて黒田官兵衛とも付き合いがあったので、官兵衛当てに「島津家を助けてほしい」という手紙も書いていたとか。
鶴ならぬ公家の恩返しといったところでしょうか。
連歌は官兵衛だけじゃなく、真田信繁や、最上義光なども嗜んでおり、その辺の事情がなかなか面白いです。
よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
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こうした義理堅さが朝廷からも好ましく思えたのか。
36歳のとき左大臣に復職すると、40歳で関白に出世。
真面目に仕事をしていたらしく、50歳で亡くなるまでの間については特に目立った逸話がありません。
その間に何かしでかしていたら、もっと有名になっていたでしょう。
それが無いということは、無難に過ごしていたに違いありません。
収まるべきところに収まってめでたしめでたしということで。
トーチャンの前久もなかなかアグレッシブで面白い人なので、お時間がありましたら以下の記事も併せてご覧ください。
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【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
近衛信尹/Wikipedia
西日本新聞(→link)







