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【近衛信尹】
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流罪先の薩摩にすっかり馴染んでしまった
薩摩へ行ってからの信尹は、さすがに落ち着きました。
罪状としては流罪ですけれども、公家の流罪って基本的に「数年、京から離れて頭冷やしてこい」(超訳)という意味合いが強いので、空気を読んで気分を切り替えたのでしょう。
お供も45人(!)いたようなので、流刑というより公認バカンス的な?
かつて父も薩摩へ行っていたことがあるせいか。
信尹は刑期中、薩摩の当主・島津義久に厚遇されています。
当時の一般的な公家からすれば薩摩は僻地にも程がある場所だったでしょうが、幼い頃から上方以外での場所に親しんでいた信尹にはあまり気にならなかったかもしれません。
薩摩のあちこちを散策しては和歌を詠み、人々に書道や絵、御所言葉など都の文化を伝えています。
暮らしていた屋敷には、信尹手植えと言われている藤の木が今もあるとか。
京に戻れることになったときにも「あと1~2年いたい」と手紙に書いていたくらいです。罪人とはいったい……うごごごごご。
関ヶ原でヘタ打った島津の所領安堵に一役買う
あまりゴネているわけにもいかないので、最終的には命令通りきちんと京都に戻りました。
31歳の時に帰京しているので、何らかの理由で刑期が短くなったようです。
「だめだこいつ……放置してたら永遠に帰ってこねえ」とか思われたわけではないでしょう。たぶん……。
予定より早く帰ることになりながら、信尹は島津家との連絡を続けておりました。
関ヶ原の際は、撤退する島津家の家臣を助けて、薩摩に帰れるよう計らったり、徳川家と島津家の間に立って、島津家の所領安堵に一役買ったり。
連歌を通じて黒田官兵衛とも付き合いがあったので、官兵衛当てに「島津家を助けてほしい」という手紙も書いていたとか。
鶴ならぬ公家の恩返しといったところでしょうか。
連歌は官兵衛だけじゃなく、真田信繁や、最上義光なども嗜んでおり、その辺の事情がなかなか面白いです。
よろしければ以下の記事も併せてご覧ください。
光秀も藤孝も幸村もハマっていた~連歌が戦国武将に愛された理由とは
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こうした義理堅さが朝廷からも好ましく思えたのか。
36歳のとき左大臣に復職すると、40歳で関白に出世。
真面目に仕事をしていたらしく、50歳で亡くなるまでの間については特に目立った逸話がありません。
その間に何かしでかしていたら、もっと有名になっていたでしょう。
それが無いということは、無難に過ごしていたに違いありません。
収まるべきところに収まってめでたしめでたしということで。
トーチャンの前久もなかなかアグレッシブで面白い人なので、お時間がありましたら以下の記事も併せてご覧ください。
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長月 七紀・記
小久ヒロ・絵
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
近衛信尹/Wikipedia
西日本新聞(→link)