甲斐の虎こと武田信玄と、越後の龍である上杉謙信が、信濃で対決した【川中島の戦い】。
全部で5回あったとされ、その中でも両軍が真正面から激突し、山本勘助や武田信繁(信玄の弟)が戦死した【第四次川中島の戦い】は、戦国史に残る激しい戦いとしてファンの皆様にもお馴染みの存在でありましょう。
しかし……。
その反動のせいか。
永禄7年(1564年)8月3日に上杉軍が川中島に着陣し、武田軍と対峙した【第五次川中島の戦い】はそっぽを向かれがち。
もはや後夜祭の後片付けみたいな雰囲気すら漂っておりますが、合戦の天才同士がぶつかり合っておいてそれはありません。
むしろ第五次の背景には、北条家も含めた数々の思惑が渦巻いており、現代人の脳髄を刺激すること間違いなし――。
最後の川中島は、関東から越中に至るまでの壮大なストーリーに紡がれておりました。

上杉謙信(左)と武田信玄/wikipediaより引用
「謙信の留守を狙え」戦略が……
はからずも激戦となってしまった前回の第四次川中島の戦いを終え、厭戦気分でちょっと休憩……と思いきや武田信玄は怒涛の攻勢に出ます。
-

武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る
続きを見る
2ヶ月後には西上野(群馬県西部)に侵攻。
次の年には北条氏康の武蔵(埼玉県)・松山城攻めに援軍を出したかと思うと、上杉謙信の北信濃最大拠点「飯山城」を攻めるため、長沼城から出陣します。
しかしここは謙信が、関東から越後に戻ったとの知らせを受けてあっさり撤兵。
「謙信の留守を狙え」戦略はまだまだ健在です。

第五次川中島の戦いの前哨戦。長沼城が武田方の最前線の城なのが分かりますね/©2015Google,ZENRIN
そして永禄7年(1564年)――。
上杉謙信が越後を留守にしたスキを狙って、今度は会津(福島県)黒川城主・蘆名盛氏に越後を北から攻めるように要請します。

蘆名盛氏/wikipediaより引用
自らは川中島を越えて野尻湖方面に進入し、野尻城(のじりじょう)を落城させてから越後国境に迫りました。
しかし、これも電光石火の早業で越後に戻った上杉謙信によって、蘆名盛氏は撃退され、反転して野尻城も奪還されます。

黒川城は現在の若松城(鶴ヶ城)です。こんな遠くから信玄は壮大な「釣り」を仕掛けました/©2015Google,ZENRIN
この時も武田方は既に兵を撤収していました。
そして、ほぼ同時期に信玄は、飛騨(岐阜県北部)の国人同士のいさかいに介入。飛騨から越中(富山県)を抜けて越後に侵入する動きを見せます。
しかしこの動きはさすがに謙信に見破られて計画は頓挫しました。
越後の北から南まで、さんざん信玄に振り回された上杉謙信は、ついにブチ切れて川中島への出陣を決心――。
というのが、第五次川中島の戦いまでの流れです。

信玄の越中侵攻構想。飛騨方面は馬場信房(馬場信春)が担当しました/©2015Google,ZENRIN
もしかして、ちょっかい出さなければ
激戦の【第四次川中島の戦い】などなかったかのような慌ただしさですね。
『本当は川中島で激戦なんてなかったんじゃなかろうか?』
そんな説もあるほど、武田信玄と上杉謙信の行動範囲は年々拡大しています。
そして武田信玄には「謙信の留守を狙え」という基本戦略がずっと生き続けております。
というか、より大掛かりになって福島県から岐阜県まで、使えるものはなんでも使う、しかも同時進行で――というマルチタスクに進化しているのでした。
いわば『信長の野望』がターン制から一枚マップのリアルタイム制になったくらいの進化です。
そして信玄は気付きます。
「もしかしてだけど~♪ もしかしてだけど~♪ 俺様がちょっかい出さなければ、謙信はずっと留守なんじゃないの~♪」

絵・富永商太
それでは第五次川中島の戦いの経緯を詳しく見ていきましょう。
上杉謙信 関東の抗争に引きずり込まれる
永禄4年(1561年)初頭、関東管領に就任した上杉謙信。
その直後に川中島で激戦を交わした後は、ほとんどすべてを関東での戦に時間も戦費も費やします。
一説によると、謙信の関東管領就任は、謙信を関東地方に目を向けさせるため、上杉憲政(関東より逃亡した前関東管領)が巧みに仕組んだシナリオだと言われています。
もう関東管領職を背負う気力もカネもないというイメージの上杉憲政ですが、実は京都を追われた後の足利義昭並みに野望を抱いていたとみる説も存在するのです。
謙信の武力をバックに、ふんぞり返っていただけかもしれませんけどね。
そんな上杉謙信は三国峠を越えてここから毎年のように関東へ。
進路は
三国峠
↓
沼田城
↓
長井坂城
↓
白井城
↓
厩橋城
と、峠を越えた後は利根川の東側の城に沿って進軍。

謙信の目的は関東管領として関東で影響力を行使することです。
その関東での拠点を、今の群馬県前橋市にある「厩橋城(うまやばしじょう)」に置きます。
坂東太郎の利根川岸に築城って自殺行為っしょ!
厩橋城は「箕輪城(みのわじょう)」の支城の一つとして、利根川の東側に寄り添うようにして築城された平城です。

長野氏の拠点・箕輪城(群馬県高崎市)
坂東太郎の異名を持つ暴れ川「利根川」の岸に築城など自殺行為に近いのですが、おそらく水運の利権などを管理していたのでしょう。
この時代に利根川のような大河の岸に築城された城は、水運利権や「渡し」の管理が目的として設置されたものがほとんどです。
江戸時代には前橋藩の「前橋城」となり、気まぐれに氾濫する利根川に侵食され、破壊が凄まじかったと言われています。
それでも城の修繕は幕府に許されず、幕末に外国船が日本にやってくるようになり江戸城の備えが必要となって、ようやく城の修繕が認められるという苦労人な城でもありました。
しかし城マニアにとって悲惨なことに、利根川の相次ぐ氾濫と、幕末の修繕によって「厩橋城」時代の遺構はすっかり消滅。
現在も開発著しく、謙信時代の名残はさっぱりないという残念な状態になっています。
むろん、真の城マニアはそこでうろたえません。
悠久の年月を経ても変わらない利根川の流れを見るだけで、厩橋城を妄想できてこそ真の城マニアです……おっと、あっちの世界にイってしまいました。てか、川中島はどこへいったんだ!?
武田信玄 西上野に侵攻する
永禄3年から4年にかけては大きな出来事(今川義元の戦死・上杉謙信の関東管領就任)が続きました。
そして、実はもう一つ戦国ビッグニュースが飛び込んできました。
西上野の名主にして戦上手、反北条の旗頭であり、武田の誘いもすべて拒否してきた箕輪城主の長野業正(ながのなりまさ)が病死したのです。
長野業正はもともと上杉憲政の被官。
憲政が越後に逃亡後も名城・箕輪城に留まり、北条方の侵攻をすべて退けていました。
また、北信濃を追放されて、六文銭どころか一文無しの若き日の真田幸綱を養ったり、この地域のまさに親分的立場の武将です。

真田幸綱(真田幸隆)/wikipediaより引用
前年に上杉謙信が関東管領に就任した時は一早く謙信の味方になり、反北条のためなら新参者でも手を組むというしたたかな一面もありました。
その長野業正が病死してしまったのです。
息子の長野業盛はそこまでの器量を発揮する前に長野家と箕輪城を継いでしまいました。

西上野への侵攻ルートは複数ありますが、確実な勝利が見込める国峰城がある南方から侵攻します/©2015Google,ZENRIN
躊躇することなく信玄は出兵
箕輪城は越後から関東地方への入り口を押さえ、信濃の武田領から上野の国への入り口も押さえる交通の要衝に位置します。
榛名山の丘陵を城郭に取り込んだ山城で、幾度となく攻められてもすべて跳ね返してきた上野国を代表する堅城でもありました。
長野業正の死はしばらく伏せられていたと言われています。
川中島の戦いの前には死去していたようですが、信玄の情報網に引っかかったのは、どうやら川中島の戦い直後のようでした。
武田家は川中島の激戦で多数の家臣が戦死してしまいましたが、突如現れたこのボーナスステージを前にして乗らない手はありません。
ためらいもなく上野侵攻を開始します。

最終目標である箕輪城に向かって順番に城を落としていきます。実に堅実でいやらしい戦略ですね笑/©2015Google,ZENRIN
第4回川中島の戦いの約2ヶ月後には武田信玄は信濃-上野国境の峠を越えて「国峰城(くにみねじょう)」を攻略します。
国峰城は3年くらい前に親族争いの末に故・長野業正派によって国許を追い出された小幡憲重・信貞の居城です。
小幡父子を甲府で庇護していた信玄は、彼らの復帰という国峰城攻撃に十分過ぎる大義名分を大いに活用しました。
しかも国峰城を乗っ取った方(小幡氏の親戚)には長野業正という後詰の将はもういません。小幡父子の勝手知ったる国峰城を落とすのは造作もなく、あっさりと国峰城を奪還することに成功します。
この小幡父子は『甲陽軍鑑』を書いた小幡氏とは別系統の小幡氏で、後年の【長篠の戦い】では騎馬突撃の末、戦死しております。

長篠合戦図屏風より/wikipediaより引用
国峰城周辺の西上野は古代から馬の産地であり、小幡氏の騎馬軍団は武田家中でも最大でした。
信玄としてはこの名馬の産地を手に入れる意図もあったことでしょう。
武装した商人たち
国峰城から上野に侵攻した武田信玄はこの後、国峰城方面と安中方面を河川で結ぶ交通の要衝、倉賀野城(くらがのじょう)の攻城に取り掛かります。
この倉賀野という地域ですが、武田方、北条方、上杉方の領地が交わる地域で、河川が縦横に走る上野の地でも商業が盛んな場所として知られています。
トラックのない時代、このような内陸部の都市の物流は河川を利用した船による運搬が重要。
ゆえに、この地の土豪は商人でありながら武士でもあるというちょっと変わった経歴を持った人たちで構成されています。
武装した商人なんてドラクエくらいでしか見ませんでしたが、実際に日本にもいたんですね。
倉賀野という地はそのくらい商業が発達した町でありながら、商人が武装しなければならないほどの紛争地帯であったということが読み取れます。
この倉賀野城の落城には数年を要しますが、その前に和田城が武田方に内応します。
和田城は高崎城の前身。城主・和田業繁(わだなりしげ)はいち早く信玄に内応を約束。
この地を押さえることによって上杉謙信の関東進軍をいやらしく邪魔ができるようになります。ちなみにこの和田業繁も長篠の戦いで戦死しています。
西上野は後年、徳川家康の関東国替えのときに井伊直政の領地となりました。

井伊直政/wikipediaより引用
当初は箕輪城を居城としていたようですが、田舎過ぎて……おっと、山間の城で不便極まりないということでこの和田城を改修し、高崎城を築城してここに移ったのです。
このときに長野業正の子孫が井伊家に仕官して彦根に移っていったと言われています。
なお、現在の和田城の「被害」状況ですが、高崎市の永遠のライバル前橋市の厩橋城と同様に、一切遺構が残っていません。
でもいいんです。悠久の年月を経ても変わらない利根川の流……もう破壊はやめて!私の妄想も限界よ!ていうか高崎に利根川流れてないし!
取り乱してすみません。先へ進みましょう。
北条への義理を果たしつつ上杉とは寸止め
武田信玄にとって、そもそも関東地方は北条家に任せるという認識は同盟時からありました。
しかし、上杉謙信という強敵の出現に加え、未だに関東各地で反抗勢力を駆逐できない北条家にとっては武田の力を少しでも借りたく、信玄の西上野侵入は黙認せざるを得ません。
じゃあ信玄は関東に野望を持っていたのか?
というとそうでもありません。
今後の南下政策(駿河侵攻)を考えると北方での上杉謙信との全面戦争は避けたいところですし、北条家との同盟はまだ利用価値が十分にあります。
北条家への義理を果たしつつ、上杉家とは寸止めというギリギリの綱渡りが上野国における武田家の戦略となります。
その落としどころが、おそらく利根川であり、倉賀野城でした。
武田家は利根川の西側、また武蔵国との国境で進軍をストップさせます。
そして西上野を完全支配下するためには名主、長野氏と名城・箕輪城の攻略が不可欠となります。
調略戦はプロに任せよう 六文銭のアイツに
さて、西上野の支配に乗り出す武田信玄ですが、最終目標は西上野最大の箕輪城を陥落させることです。
経歴は親父ほどでもない息子・長野業盛であっても、さすがの箕輪城と張り巡らされた上野国人衆の支城ネットワークで、そう簡単には落ちません。
これはどこかでみたことのある状況ですね。
そうです。川中島の戦いが始まる前の北信濃の状況とそっくりです。
武田信玄は今回も西上野の国人衆同士のもめ事や親戚同士の争いに「積極的に」介入していきます。
そして親戚同士の骨肉の争いに関しては俄然実力を発揮する六文銭のあの男を活用しない手はありません。
そうです。真田幸綱(幸隆)がまたしても登場します。
長野業正に養ってもらった恩義など忘れたかのように、いや、もしかしたらその経歴すらも美談にすり替えたかのように西上野の諸城と国人衆を次々と落としていきます。
後年、秀吉の北条攻めの原因にもなった名胡桃城(なぐるみじょう)など、西上野の地に真田家が進出する元となった調略戦が展開されますが、これはもうちょっと先のお話。

1564年時の西上野。箕輪城が風前の灯火なのが分かります。ちなみに謙信の厩橋城が近そうですが、間には利根川があり、大軍の渡河は容易ではありません/©2015Google,ZENRIN
その頃、北信濃の善光寺平は?
さて、川中島では海津城を中心に着々と武田領化が進んでいました。
北信濃に残る上杉方の城はもう川中島地方じゃねえ、で有名な飯山城と野尻湖周辺の城、そして善光寺周辺も上杉方ではありますが、既に経済的にも政治的にも松代方面の武田家の影響力が大きくなってきています。
上杉方とはいえ善光寺の町も武田家とうまく商売していかないと繁盛しませんからね。

真冬の善光寺。このように寂しい雰囲気にならないためにも善光寺平大半を占める武田領との良好な関係は不可欠です
上杉謙信は、前述の通り、武田家の西上野への侵入を許し、越後の北から南まで、信玄にちょっかいを出されて黙って引き下がる男ではありません。
今回も信玄に手痛い一撃を与えるために動きます。
その点では上杉謙信の戦略も首尾一貫。武田家に手痛い一撃を与えて、上杉方への攻撃の代償が高くつくことを思い知らせることです。
謙信は武田家の攻撃にあたっては最も大軍を投入しやすく、手痛い一撃を与えられる場所を選びます。
関東管領という立場からすれば、西上野の地で信玄に手痛い一撃を与えたかったことでしょう。
しかしこれは利根川のような大河を大軍で渡河するリスクと、北条方の援軍も考慮すると最悪の二正面作戦になるおそれがあります。
また、上杉謙信自身も慣れない地ですので地の利がありません。
ということで西上野は却下です。越中方面から飛騨に入って西信濃を突くのも物理的に遠く、現実的ではありません。
そうなるとやはり今回も迅速な大軍の投入が可能な勝手知ったる川中島で手痛い一撃を与えるのが謙信にとってベストな選択となります。
謙信にとって、もう川中島を含む善光寺平は単なる戦場・バトルフィールド扱いです。
ようやく始まる!第五次川中島の戦い
前回は長沼城方面で千曲川を越えて、北國脇街道に沿って松代方面の海津城包囲に向かいました。
が、今回は善光寺からまっすぐ南に向かい犀川を越えて北国街道に沿って川中島の中心部へ進軍します。

一見、背水の陣のようですが、旭山城に近い地で、犀川方面に退却路をしっかりと確保しています/©2015Google,ZENRIN
前回は海津城をおとりに後詰めにやってくる武田本隊を狙おうとして失敗しました。
しかし戦の天才は前回の反省と戦いで得られたデータを生かします。
前回の戦いで、海津城は千曲川のために川中島方面への出撃が苦手なのがわかりました。
ということで川中島でも海津城とその支城ネットワークから十分に離れた場所、「小田切館」(現・今井神社)に本陣を置きます。
これでもかというほど海津城や千曲川から離れた場所で、すぐに善光寺方面にも退却可能。
背後に回り込まれる心配もない位置に本陣を置いていて、プロフェッショナルというのは本当に前回の反省を生かすんだなあと関心しつつも、なんだか微笑ましくもあります。
海津城に春日虎綱を置き上杉方の動向を探り
一方、武田信玄は上杉謙信の出陣を知って、塩崎城まで動きます。
理想は第二次川中島の戦いのように犀川を最前線にしたかったのでしょうが、旭山城はいまだに上杉方の城だったのでしょう。犀川を最前線にするのは不可能でした。
信玄は塩崎城に本陣を置き、もちろん海津城には春日虎綱を中心に信濃の国人衆を置いて上杉方の動向を見張ります。
しかし双方動きません。結局60日間動くことなく経過し、上杉謙信は飯山城まで兵を引きます。
第四次の戦いの異説として、妻女山布陣はなかった説を紹介しましたが、結局、犀川渡河から川中島への進出はこのように決戦は見込めないのはこの第5回の滞陣から分かります。
双方に決戦の戦略があれば別ですが、明らかに武田信玄にその気はありませんからね。謙信もそれは分かっていた上での犀川渡河ならば、今回の謙信にも決戦の意図はなかったのかもしれません。
結局、これが第五次、そして最後の川中島の戦いになります。
って最後は全然戦ってませんけどね。

10年に渡る戦いも呆気なく終了 信玄は駿河へ
ということで10年にも渡る川中島の戦いは、あっさりと幕を閉じました。
この後、善光寺平を巡る戦いは起こりません。
というか予定調和のように武田信玄は南下して駿河侵攻にのめり込み、上杉謙信は関東へと進出していきます。
このとき武田、上杉で密約が交わされたという陰謀説も考えられますが、その後、西上野で武田と上杉は細かい衝突を繰り返していますし、確たる証拠もありません。
信玄は息子の勝頼に「困ったら謙信を頼れ」と遺言したなんて話もありますね。

武田勝頼/wikipediaより引用
言外に含まれる何かがあったかもしれません。今となってはそれも不明です。
ただ、当時の状況、起こったことを一つずつ検証していくと見えてくるのは、上杉謙信が関東管領に就任した今となっては、武田信玄が北信濃の飯山城や野尻城にちょっかいを出さなければ謙信は動かないということです。
戦の天才同士は暗黙の了解でここを落としどころにしたのかもしれません。
上杉謙信にとっては亡命してきた村上義清を始めとする北信濃国人衆を多数抱えており、北信濃の奪還を強く要請されていたことでしょう。
武田信玄も北条家との同盟で、関東に侵攻する謙信のけん制のために北信濃からの攻撃を強く要請されていた。
しかし環境の変化とともに宿敵同士の利害が一致するようになり、特に信玄にとっては今後の南下政策で北条氏康(今川氏真の義父)との同盟が邪魔になることは目に見えています。

北条氏康/wikipediaより引用
嫡男・武田義信(嫁が今川義元の娘)と譜代家臣の飯富虎昌を中心とする親今川派との派閥抗争、場合によっては親今川派の粛清にも着手しなければいけません。
謙信の場合は独立色の強い家臣の統制と上杉憲政や足利幕府との関係のはざまでバランスをとっていかなければなりません。
「戦国大名やるのもたいへんよね、ま、お互い新天地でがんばりましょ」ということで双方折り合いがついたといったところでしょうか。
最後に……
武田信玄の城を追いながら川中島の戦いをみてきましたが、いかがだったでしょうか。
九割九分が城郭戦で川中島の戦いのイメージが変わったと思います。
「俺は第二次の謙信の旭山城付け城戦術が好きだな」とか。
「城の力攻めは愚策よ。そういう意味では真田幸綱(幸隆)、あいつの調略はパネエ」とか。
「海津城? まあ松代方面では機能するけど川中島での運用はかなり難しい城でもあるね」など。
「一騎打ち」や「きつつきの戦法」のイメージしかなかった川中島の戦いに、新しい視点で盛り上がってもらえるとうれしいですね。
そして川中島の古戦場だけでなく雨飾城の断崖に挑む城マニアが一人でも増えることを期待して、川中島シリーズを終わりたいと思います。
「謙信の留守を狙え」→修正「手を出さなければ謙信は常に留守」 by信玄
信玄については、駿河へ侵攻してから城が巨大化して、より楽しくなるのですが、いったん視点を変えて、信長の城なども見て参りたいと思います。
あわせて読みたい関連記事
-

第四次川中島の戦い~信玄vs謙信の一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由
続きを見る
-

武田信玄の生涯|最強の戦国大名と名高い53年の事績を史実で振り返る
続きを見る
-

蘆名盛氏の生涯|伊達と組み武田や北条とも繋がる 会津名将の巧みな手腕
続きを見る
-

第四次川中島の戦い~信玄vs謙信の一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由
続きを見る
-

足利義昭の生涯|信長と共に上洛し一人京を追い出された 室町幕府最後の15代将軍
続きを見る
-

今川義元の生涯|“海道一の弓取り”と呼ばれる名門武士の実力とは?
続きを見る





