第四次川中島の戦い

武田・上杉家

第四次川中島の戦い~信玄vs謙信の一騎打ちがなくても最大の激戦になった理由

戦国時代の頂上決戦と言えば、皆様、どの戦いを思い浮かべるでしょう?

長篠の戦い】や【山崎の戦い】あるいは【小牧・長久手の戦い】に【関ヶ原の戦い】など。

日本史に影響を与えた歴史的意義を考えると、やはり三英傑(信長・秀吉・家康)の戦いが候補に挙がってきましょう。

しかし、戦国ロマンを重視して一つ挙げるとすれば?

第四次川中島の戦い】も候補の一つに数えても良いのではないでしょうか。

永禄4年(1561年)9月9日から10日かけて戦闘が始まったとされますが、とにかくその特徴がアツい。

武田信玄上杉謙信が真正面から激突

・計5回行われたという川中島の戦いの中で最も激しかった

・両軍の死傷者も相当な数にのぼる

・信玄にせよ謙信にせよ「城」をめぐって緻密な戦術が張り巡らされていた

※以下は信玄と謙信の関連記事となります

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「人は城、人は石垣、人は堀」なんて言葉があるせいか。

信玄は「城に興味がない」なんて思われたりしますが、そんなことは1ミリもなく、むしろ川中島の戦いは城の奪い合いと言えます。

というか【すべての合戦は城(領地)の奪い合い】が大前提にあり、一見、城とは関係のないように見える戦いでも、数多の城が密接に関わっているものです。

それは第一次~第三次川中島の戦いについても同様のことが当てはまり、以下の記事でご確認いただくとして、

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ともかく今回は第四次川中島の戦いを振り返ってみましょう。

 

善光寺平の統治者として政治的支配を進める信玄

まずは【第三次川中島の戦い】から簡単におさらいさせてください。

信玄と謙信の戦いは、力が拮抗しており、両者、詰め将棋のような緻密な攻防を続けたため、派手さからは遠い展開となっておりました。

信玄が調略しまくる

謙信ガマン
↓↓
信玄調略しまくる

謙信キレる
↓↓
信玄逃げる

謙信全力で追う
↓↓
信玄全力で逃げる

謙信オトナの対応であきらめる
↓↓
信玄戻ってきてまたちょっかい出す

謙信待ち構えていて撃退
↓↓
信玄逃げる

そう簡単に全面戦争とはならないんですね。

ただし、双方、ヤル気がなかったワケじゃありません。

【第三次川中島の戦い】で信玄は、和睦の条件として、風前の灯火だった足利幕府に掛け合い【信濃守】の称号を購入……おっと、手に入れました。

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善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

「自称も可能な名ばかりの役職」でおなじみの守護職ですが、「将軍様に信濃守護職頂いちゃいました~」と自慢してみたり、「信濃は俺様の領土!」とゴーマンかましてみたり。

北信濃の国人衆に対してだけでなく、国内外に広く宣伝しまくって「なんか武田さんちの信濃が上杉に侵略されてるらしいよ」というステマの垂れ流しに信濃守の称号を存分に活用していたのです。

このように武田信玄は善光寺平の新しい統治者としての政治的支配も着々と進めておりました。

では軍事的支配は、どのように発展させたのでしょうか?

 

第四次川中島の戦い 直前の様相は?

これまで武田家では「謙信の留守を狙え!」という大戦略を重視。

謙信が北からやってきたら、遥か南へ退却という戦略を取っていました。

ところが第三次川中島の戦いでは謙信の大掛かりな逆襲に遭ってしまい、北信濃の諸城に予想外の損害を受けてしまいます。

また、謙信が来たら退却という戦略も一部の武田方の武将にはいささか納得がいかなかったようで。

「士気が落ちる」

「戦わせろ!」

「それでも男ですか!軟弱者!」

「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」

おっと、いつのまにかガンダム名言集に……要は、戦いたくてウズウズしている武将がちらほら出てきたのです。

もちろん武田信玄自身は兵力の温存こそが最大の勝機であることは分かっています。

一方で少し下に見ていた上杉謙信が【関東管領】に就任し、「関東切り取り次第」というお墨付きを得たことに対しての焦りも徐々にでてきていました。

 

海津城はスターウォーズに出てきた巨大な球体だ

こうした情勢の中。

最前線支援の単なる補給地点という目的だけでなく、善光寺平の新しい政治的および軍事的統治のシンボルとして海津城が築城されます。

松代城址に残る海津城の碑

「政治的および軍事的統治のシンボル」

という要件を満たすには川中島の要衝に位置し、なおかつ恒久的なものでなくてはなりません。

海津城を名実ともに政治的拠点にするには、信玄に近い譜代の家臣を置き、武田家直轄の城にしなくてはならないんですね。

このような方針は、信玄にはすでに実績がありました。

現在の松本市一帯を支配下に入れたとき、深志城を築城していたのです。

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おなじみの松本城。この場所に「深志城」がありました

今では面影は残っておりませんが、現存の松本城の場所に築城され、町割りまで新たに施した「平城」だったようです。

平城は、織田、豊臣、徳川時代のものでもなければ、戦国後期のものでもなかったんですね。

すでにこの時代からありました。

 

松代地方そのものが天然の要塞だった

通常、政治的支配を目論むための城ならば、川中島を通る「北国街道」を押さえる場所か、善光寺付近に城を構えるのが適しているでしょう。

しかし依然として国境線は犀川であり、川中島のど真ん中に城を築く危険はおかせません。

そこで信玄が選んだ地は、北国街道の脇街道が通る松代方面の平野部でした。

犀川はよく氾濫したようで、脇街道といっても人や物資の往来は海津城築城以前からこの地方で頻繁に使われていたことが推察されます。

また、この地域には以前から東条氏、寺尾氏、清野氏、香坂氏など、複数の北信濃国人衆が館を構えていましたので、ある程度の町が既にあったでしょう。

城を築いて武田の政庁を置くにはうってつけの場所だったのです。

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海津城全景。松代地方は雨飾城や鞍骨城も含む巨大な複合城郭ともいえます/©2015Google,ZENRIN

そして今回の海津城も「平城」です。

しかし海津城周辺の地図を見れば、平城といっても一目瞭然の要害なのがお分かり頂けるでしょうか。

三方を高い山に囲まれて、しかも山々には雨飾城や鞍骨城といった堅城を外郭とし、開けた方面には千曲川が攻城側の行く手を遮るのです。

山に囲まれた平野部には町割りに適度な広さを得られます。

さらに裏山からの峠越えで、小県郡の真田本城方面につながる補給と後詰めのルートがあり、袋のネズミになる心配もありません。

このように海津城――というより松代地方そのものが天然の要塞であり、政治、ビジネス、人々の生活、そして軍事まですべてを備えた巨大な要塞、まさに「デス・スター」となっていたのです。

ちなみに戦時中も、この地に本土決戦の最後の拠点を建設しています。

興味のある方は【松代大本営跡】でググってみましょう。

 

海津城 名前の由来は山本勘助?

海津城は「海のような千曲川」に沿って築城されたことから「海津」と命名されたと言われています。

また山本勘助の築城図「甲斐図」から命名されたとも言われ、城名の由来には諸説あります。

いずれにしろ築城当時は千曲川の流れを海津城の堀として利用した川沿いの「平城」であったこと。

また築城には山本勘助が関わっていたことが分かります。

現在は江戸時代の真田家の松代藩時代を経て「松代城」として整備が進み、千曲川の流れも変わってしまって戦国時代の「海津城」の趣きは全くありません。

しかし山城ばかりの善光寺平の一角に平城がぽつりと立っている不自然さ、そし海津城を中心に町割りをして新都市を建設を目論んだ計画的な築城だったことに海津城の魅力があり、夢の新都市構想の妄想も広がるのです。

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