勢力拡大のため北信濃へ進出していった信玄は、越後の上杉謙信と衝突――。
そこで勃発した【第一次川中島の戦い】での信玄は、以下の記事通り、
第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いている
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やや無気力症候群でした。
当人にしてみれば
「いやいや、全然、負けてねえし! てか、川中島の戦歴にカウントしてんじゃねえよ」
と言いたいところかもしれません。
なんせ合戦はその後も続き、
【第二次川中島の戦い】
↓
第三次、第四次……ついには第五次まで発展してゆくのです。
では第一次が終了した天文22年(1553年)時点で、信玄サイドはいかなる作戦を推し進めたのか?
実は二度目の対峙となる第二次川中島の戦いは、200日にも及び、弘治元年(1555年)閏10月15日に和睦が結ばれます。
いったいどんな戦いだったのか、振り返ってみましょう。
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川中島の戦いに向けて同盟の成立を
まず本題に入る前に事前の準備を確認しておきましょう。
かくして信玄がはじき出した答えは……
【謙信の留守を狙え!】
というもの。
武田ファンには苦虫な展開かもしれませんが、後の【川中島の戦い】における信玄の基本戦略となります。
謙信の留守を狙ってまずは北信濃を制覇――この大戦略を実行していくために信玄は細かい戦略を立てていきます。
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
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信玄は1554年、今川義元、北条氏康との間に甲相駿三国同盟を結ぶことになります。
駿河から三河→尾張へと進みたい今川家。
その軍師的僧侶・太原雪斎のアイデアとも言われますが、今川だけでなく武田・北条にとってもメリットは大きく、同盟成立後の両家は同時に上杉と当たることができるようになります。
そう方針の決まった信玄。
南信濃においては伊那侵攻と同時に、甲相駿三国同盟の締結で背後を固め、北信濃では善光寺平の有力な国人衆「栗田寛明(栗田寛安の説もあり)」を寝返らせることに成功しました。
もちろん上杉の家臣にちょっかいを出しすことも忘れず、一気に北上します。
いよいよ【第二次川中島の戦い】の始まりです。
頭脳戦!囲碁のような城取り合戦
信玄の北上――。
つまり武田軍の進出は、上杉謙信にとって一大事。毘沙門天に御神託を諮らずとも即出撃となります。
川中島の北方、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで両軍が構えました。
ここで第二次川中島の戦いで非常に重要となる城「旭山城(あさひやまじょう)」が登場です。
善光寺の西方に築かれた、標高700mの山城(上記の地図で赤い拠点)。
中世の築城術では通常、高さ400m程度の山に城を収めるべきであり、あまり高過ぎると物資や人の移動が難しくなり、近づいてくる敵兵の見分けも難しくなるので、高すぎる山はやめておけ――とされています。
そうすると旭山城は高い。
700mは高すぎる。
そう思うかもしれませんが、ここに現代の【標高】表示のワナがあります。
「標高」とは海面からの高さを表しており、日本においては東京湾の平均海面が基準になります。
一方、県自体の標高がそもそも高い長野県では、この標高表示に注意が必要。長野市は平野部の一番低い場所でも標高が360mあるのです。
たとえ旭山城が標高700mだとしても、長野市街や麓からの高さ(これを「比高」と言う)で見てみれば、せいぜいが300mちょっとで、十分に山城のセオリー範囲内にありました。
ちなみに松本城の立つ松本市の標高は約580mで天守の高さも含めると標高は620mを越えます。
松本城天守は東京スカイツリーとほぼ同じ「標高」だということが分かります。
このように「山城の特徴」を捉えようとするときは、標高表示などほとんど意味をなさないのです。
長野県や山梨県では特に注意しましょう。
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