勢力拡大のため北信濃へ進出していった信玄は、越後の上杉謙信と衝突――。
そこで勃発した【第一次川中島の戦い】での信玄は、以下の記事通り、
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第一次川中島の戦い ポイントは塩田城~信玄も謙信も城を中心に動いていた
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やや無気力症候群でした。
当人にしてみれば
「いやいや、全然、負けてねえし! てか、川中島の戦歴にカウントしてんじゃねえよ」
と言いたいところかもしれません。
なんせ合戦はその後も続き、
【第二次川中島の戦い】
↓
第三次、第四次……ついには第五次まで発展してゆくのです。
では第一次が終了した天文22年(1553年)時点で、信玄サイドはいかなる作戦を推し進めたのか?
実は二度目の対峙となる第二次川中島の戦いは、200日にも及び、弘治元年(1555年)閏10月15日に和睦が結ばれます。

上杉謙信(左)と武田信玄/wikipediaより引用
いったいどんな戦いだったのか、振り返ってみましょう。
川中島の戦いに向けて同盟の成立を
まず本題に入る前に事前の準備を確認しておきましょう。





かくして信玄がはじき出した答えは……
【謙信の留守を狙え!】
というもの。
武田ファンには苦虫な展開かもしれませんが、後の【川中島の戦い】における信玄の基本戦略となります。
謙信の留守を狙ってまずは北信濃を制覇――この大戦略を実行していくために信玄は細かい戦略を立てていきます。



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北条氏康の生涯|信玄や謙信と渡りあい関東を制した相模の獅子 その事績
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信玄は1554年、今川義元、北条氏康との間に甲相駿三国同盟を結ぶことになります。
駿河から三河→尾張へと進みたい今川家。
その軍師的僧侶・太原雪斎のアイデアとも言われますが、今川だけでなく武田・北条にとってもメリットは大きく、同盟成立後の両家は同時に上杉と当たることができるようになります。



春日山城/大雪の冬はさすがの謙信も進軍は不可能




そう方針の決まった信玄。
南信濃においては伊那侵攻と同時に、甲相駿三国同盟の締結で背後を固め、北信濃では善光寺平の有力な国人衆「栗田寛明(栗田寛安の説もあり)」を寝返らせることに成功しました。
もちろん上杉の家臣にちょっかいを出しすことも忘れず、一気に北上します。
いよいよ【第二次川中島の戦い】の始まりです。
頭脳戦!囲碁のような城取り合戦
信玄の北上――。
つまり武田軍の進出は、上杉謙信にとって一大事。毘沙門天に御神託を諮らずとも即出撃となります。
川中島の北方、善光寺平を東西に流れる犀川を挟んで両軍が構えました。
ここで第二次川中島の戦いで非常に重要となる城「旭山城(あさひやまじょう)」が登場です。
善光寺の西方に築かれた、標高700mの山城(上記の地図で赤い拠点)。
中世の築城術では通常、高さ400m程度の山に城を収めるべきであり、あまり高過ぎると物資や人の移動が難しくなり、近づいてくる敵兵の見分けも難しくなるので、高すぎる山はやめておけ――とされています。
そうすると旭山城は高い。
700mは高すぎる。
そう思うかもしれませんが、ここに現代の【標高】表示のワナがあります。
「標高」とは海面からの高さを表しており、日本においては東京湾の平均海面が基準になります。
一方、県自体の標高がそもそも高い長野県では、この標高表示に注意が必要。長野市は平野部の一番低い場所でも標高が360mあるのです。
たとえ旭山城が標高700mだとしても、長野市街や麓からの高さ(これを「比高」と言う)で見てみれば、せいぜいが300mちょっとで、十分に山城のセオリー範囲内にありました。
ちなみに松本城の立つ松本市の標高は約580mで天守の高さも含めると標高は620mを越えます。
松本城天守は東京スカイツリーとほぼ同じ「標高」だということが分かります。
このように「山城の特徴」を捉えようとするときは、標高表示などほとんど意味をなさないのです。
長野県や山梨県では特に注意しましょう。
謙信よ答えてみろ 善光寺平の支配者は誰だい?
話を川中島に戻しましょう。
この頃の善光寺の本堂がある付近(犀川の北部)は、まだまだ上杉の勢力が強い地域です。
そんな地域にあって善光寺平全体が見渡せる旭山城に、栗田寛明を入れました。調略で味方にした前述の国人であり、武田方の援軍、鉄砲や武器などの援助物資と共に籠城させたのです。
敵地に張り出した地域にあってしかも山城。
最前線の「攻めの城」の位置にありながら「詰めの城(=援軍も来るよ)」でもあるという、いささか矛盾した位置付けの旭山城には、どんな意味があったのか?
ひとつは善光寺平の「占領アピール」です。
善光寺平のどこからでも見渡せる山頂に武田の旗が翻っている様子を想像してみてください。
誰が一帯の主であるか?
ひと目で知らしめるにはこれ以上の場所はないでしょう。

善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました
そしてもう一つの役割は上杉謙信と上杉方の北信濃国人衆に向かって「どこからでもかかってこいや!」と言わんばかりの「挑発」です。
第一次とは異なり、信玄はかなり大胆な一手を打ってきました。
旭山城は、その山城としての特徴から防御主体の詰めの城です。
しかしここは上杉方を引きつけて二正面作戦を促す目的、つまり「おとり」の役割りもありますので、防御主体の城でいいのです。
山城を力で攻め落とすのは容易ではなく、これに謙信が取りかかっている間に信玄が正面から攻撃できますし、謙信が旭山城を無視して信玄に正面から向かってきても、旭山城がある限り、常に自陣の横っ面を突かれないよう旭山城方面に一定数の兵力を割かなければいけません。
つまり少数でも籠城しているだけで旭山城は上杉謙信にとっては脅威なのです。
では先手を打たれてしてしまった謙信は何をしたのでしょうか。
「旭山城、おまえはもう死んでいる」戦術
旭山城が武田方に落ちたとき、謙信はすかさず「横山城(よこやまじょう)」という城に入ります。
この横山城は、善光寺の東側、本堂のすぐ真横に築かれた平山城です。神仏への嫌がらせではありません。
善光寺は川中島を含む善光寺平の総元締めのような立ち場で、古くからこの地域の支配を目論む武将たちの権力争いに巻き込まれてきました。といっても善光寺自体が権力そのものだったのですが。
そんなアウトレイジな時代では、宗教施設と言えども安穏としてはいられません。
一向宗の尾山御坊や石山御坊のように宗教施設もこの時代は城郭並みに守りを固めていました。
特に善光寺のようにこの地域一帯に利権を持つ立ち場では、たとえ寺でも要塞化せざるをえません。
その善光寺の守りを固める外郭が横山城であり、その横山城の詰めの城として築城されたのが旭山城なのです。
さて、謙信は横山城に布陣してみたものの、そもそもその横山城の詰めの城でもある旭山城には、何の脅威にもなりません。
そこで謙信は、旭山城への対策として、戦のセオリーである「付け城戦術」で対抗します。
謙信は旭山城の北方、旭山よりさらに高くて、旭山城を一望できる場所にある「葛山城(かつらやまじょう)」を改修し、ここに陣を移動します。
次いで葛山城の後方に「大峰城おおみねじょう」も築きました。
以下の地図でご確認を。
紫色の拠点→謙信サイドの葛山城・大峰城・横山城
赤色の拠点→信玄サイドの旭山城
黄色の拠点→善光寺
この大峰城、昭和のお城建築ブームの時に場違いでフェイクやっちまった感満載の「近代的な」天守が建てられました。
もちろん大峰城には、戦国時代はおろか江戸時代にも天守なんてありません。
フェイクでも全力で釣られてこその城マニアが、この大峰城天守をハイパーポジティブに評価するなら、旭山城址に建てなかった判断がグッジョブ!です。←全然誉めてない。
話を戦国時代に戻しましょう。
善光寺の利権問題に食い込んだ信玄
「上杉謙信は付け城戦術で葛山城と大峰城を築いた」と書けば教科書の模範解答としては正解です。
では何故、有効な付け城が葛山城と大峰城なのか?
と問われれば、全く答えにはなりません。
この先を考えることで歴史がぐんと面白くなるのですが、学校教育ではそこまで踏み込みません。
おっと教育批判はそこまでだ!
というかそもそも学校でお城の意義なんて教えませんが。
城に戻ります。
葛山城は旭山城より高く、間近で圧力をかけるには最適の位置なのはわかります。
しかし大峰城については葛山城の背後にあり、存在意義が分かりません。
最初は補給の城かと考えましたがそれは葛山城で十分ですし、善光寺一帯は上杉の支配地域ですので補給ルートの確保や補給地点に難はありません。
すべての城にはそこに立つ理由があると考える私には、大峰城の位置に特に言及する資料もなくモヤモヤが残ります。
そこで私見を入れさせていただきますと……。
この付け城の配置には、旭山城に篭った栗田氏の出自が関係しているのではないか?と考えます。
栗田氏は善光寺平の国人衆の一人で、代々善光寺の別当職を務めてきた一族でもあります。
お寺の別当というのはざっくりいうと宮司兼管理者のような立場です。
要するに善光寺の既得権益者です。
既得権益あるところに権力闘争あり――。
これが戦国時代になって善光寺大御堂派と小御堂派で親族対立を起こし、小御堂別当の栗田氏が武田信玄側に付きました。まぁ、信玄が親族争いに付けこんだのでしょう。
栗田氏の歴史をもう少し遡りますと、栗田氏は善光寺の別当職に就く前から戸隠神社の別当職を代々務めていました。
この栗田氏の先祖の地である戸隠と善光寺、そして旭山城をつなぐルートを見てみますと、葛山城の南方を通るルートと葛山城と大峰城の山間を抜ける2通りのルートがあることが分かります。
つまり大峰城は、戸隠方面から旭山城の栗田氏への援軍(戸隠流の忍者軍団がいたかどうかは分かりません)や援助物資の道を完全に遮断するために築かれた――そう考えるのが自然ではないでしょうか。
旭山城の孤立=栗田氏の孤立=戸隠方面を遮断。
と考えると葛山城と大峰城の位置は旭山城を孤立に追い込む絶妙な付け城戦術、さすが謙信さん!となります。
あくまで「お城野郎!(私のことです)」の私見ですので妄想の域を出ませんけどね。
まんざら外れでもない気はしております。
信玄を誘い出すため謙信が罠をはっていた!?
謙信に付け城戦術を取られてしまった旭山城はもう丸裸かつ袋のネズミです。
この地域の主導権は完全に上杉謙信側に移りました。
旭山城の兵力はそれほど多くないばかりか、そもそも城の防御力があって初めて上杉方に脅威を与えられるのです。
葛山城へ打って出ても、まず間違いなく上杉謙信にやられます。
かといって上杉謙信も信玄の到着前に莫大な物資と兵力を消耗する攻城戦に挑むような愚はおかしません。
このように付け城戦術は、より優位な場所に自軍の城を構えることによって相手側の援軍と補給を遮断して孤立させ、一兵も損なうことなく城を「死に城」にすることができるのです。
しかし旭山城には補給ルートがもう一つ残されています。
それは旭山城の南側、犀川渡河からのルートです。
後詰めの武田信玄が南からやってきたと当たり前のように書かれますが、実は今回の信玄の行軍とこの地への陣地構築は旭山城への補給ルートを南側に限定された結果とも言えます。
信玄を誘い込むために、上杉謙信があえてこのルートを残したと考えるとかっこいいのですが……真実はわかりません。
いよいよ両軍激突か!? 犀川の戦い
信玄の次の一手を見ていきましょう。
信玄も戦のセオリーに則って、旭山城の援軍「後詰め」として犀川の南側まで出陣し、川中島のど真ん中「大堀館(おおぼりやかた)」に本陣を構えます。
ついに信玄は本陣を山城ではなく川中島の平野部に構えました。
これはもう積極侵攻を表明したようなものです。
対する上杉謙信はこの最後の後詰めルートも遮断するために犀川付近まで出陣します。
しかし信玄は犀川を前に一歩も動きません。
犀川を南北に挟んで武田、上杉の両軍がにらみ合う状況が続きます。

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この間、上杉方は何度か犀川の渡河を試みて、武田方に小競り合いを挑んでいます。
よく謙信は我慢ができなかったとか、焦っていたとかいろいろ言われていますが、我慢ができない総大将がこの後200日もこの場に滞陣するなんて、ちょっと考えられません。
謙信は凡庸な武将ではない。
戦のセオリーを知っている。
ここまでの完璧な付け城戦術、とポジティブに考えれば、謙信は単純にルート限定した後詰めを叩く、もしくは犀川の南部、信玄の背後にまさに旭山城のような橋頭堡を築いて包囲を目論んだと考えるのが妥当ではないでしょうか。
しかしこの上杉方の犀川渡河作戦も、結局は小競り合い程度で、武田方に撃退されると、謙信も兵を出すのをすぐに止めます。
武田信玄が犀川渡河をしないどころか一切動かないという意志を謙信は確信したのでしょう。
ここでも戦の天才同士の心の交流が垣間見られます。
結果、第二次川中島の戦いは200日にも及ぶ長期のにらみ合いに入るのでした。
戦は主導権の取り合いです。
先に動くことによって主導権を得ることもありますが、逆に先に動くことで主導権を相手に奪われてしまう「後の先」もあります。
このような状況ではどちらも動くことができません。
結局、今川義元を通じた仲介で両軍撤退となります。
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補給路が伸びきってしまった武田信玄が、遠征先での長期滞陣が難しくなって今川義元にお願いしたと言われています。
両軍撤退の提案に対し、謙信が示した撤退の条件が【旭山城の破却】でした。
これだけでも、膠着状態の原因が、旭山城にあったというのがよく分かるでしょう。
一つの城の占領がその後の戦局を大きく左右させるのです。
第二次川中島の戦いは、激しい攻城戦こそないものの、頭脳と頭脳の城取り合戦、そして城の役割は、両雄の戦略を達成させるための駒であることが明確にわかります。
これこそが最前線の城のカタチなのです。
兵を一点集中させられるが条件は敵も同じこと
第二次川中島の戦いは、両軍撤退で幕を閉じました。
武田信玄の放った旭山城という挑発。
それに乗らなかった上杉謙信の戦のセンス。
武田信玄が

と思ったのは間違いないでしょう。
そして信玄にとって今回は反省点が2つ出てきました。
一つは「補給」。
上杉の戦センスを考えると短期決戦は難しい。
実行したところで確実に勝つ保証はありません。
そうなるとこの川中島に長期滞在できる拠点、城の確保が必要になってきます……うーん、我慢できないから言ってしまおう!
後の「海津城」築城フラグです。
そしてもう一つは、善光寺平においては戦線が犀川越えという一点しかないこと。
これは兵力を一点に集中できるため、兵の運用を容易にしますが、それは敵も同じです。プランBのない、一択しかない戦略などは、古今東西、必ず失敗します。
しかし積極侵攻策が国是のような武田方には、プランBがないからといってその地に踏みとどまることなど許されません。
かといって力攻めを試みても上杉のセンスと戦闘力に、これまた勝つ保証はどこにもありません。
ということで信玄は最初の大戦略に戻ります。
すなわち「謙信の留守を狙え」。
次回、第三次川中島の戦いは、調略戦を仕掛ける武田信玄と、ついにブチ切れる上杉謙信の泥沼の戦闘で、攻城戦多数!
城マニアにとっては垂涎モノの激しい城取り合戦が展開されるのです。
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