第二次川中島の戦い

武田・上杉家

たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した 第二次川中島の戦いを振り返る

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信玄を誘い出すため謙信が罠をはっていた!?

謙信に付け城戦術を取られてしまった旭山城はもう丸裸かつ袋のネズミです。

この地域の主導権は完全に上杉謙信側に移りました。

旭山城の兵力はそれほど多くないばかりか、そもそも城の防御力があって初めて上杉方に脅威を与えられるのです。

葛山城へ打って出ても、まず間違いなく上杉謙信にやられます。

かといって上杉謙信も信玄の到着前に莫大な物資と兵力を消耗する攻城戦に挑むような愚はおかしません。

このように付け城戦術は、より優位な場所に自軍の城を構えることによって相手側の援軍と補給を遮断して孤立させ、一兵も損なうことなく城を「死に城」にすることができるのです。

しかし旭山城には補給ルートがもう一つ残されています。

それは旭山城の南側、犀川渡河からのルートです。

後詰めの武田信玄が南からやってきたと当たり前のように書かれますが、実は今回の信玄の行軍とこの地への陣地構築は旭山城への補給ルートを南側に限定された結果とも言えます。

信玄を誘い込むために、上杉謙信があえてこのルートを残したと考えるとかっこいいのですが……真実はわかりません。

 


いよいよ両軍激突か!? 犀川の戦い

信玄の次の一手を見ていきましょう。

信玄も戦のセオリーに則って、旭山城の援軍「後詰め」として犀川の南側まで出陣し、川中島のど真ん中「大堀館(おおぼりやかた)」に本陣を構えます。

ついに信玄は本陣を山城ではなく川中島の平野部に構えました。

これはもう積極侵攻を表明したようなものです。

対する上杉謙信はこの最後の後詰めルートも遮断するために犀川付近まで出陣します。

しかし信玄は犀川を前に一歩も動きません。

犀川を南北に挟んで武田、上杉の両軍がにらみ合う状況が続きます。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-7

©2014Google,ZENRIN

この間、上杉方は何度か犀川の渡河を試みて、武田方に小競り合いを挑んでいます。

よく謙信は我慢ができなかったとか、焦っていたとかいろいろ言われていますが、我慢ができない総大将がこの後200日もこの場に滞陣するなんて、ちょっと考えられません。

謙信は凡庸な武将ではない。

戦のセオリーを知っている。

ここまでの完璧な付け城戦術、とポジティブに考えれば、謙信は単純にルート限定した後詰めを叩く、もしくは犀川の南部、信玄の背後にまさに旭山城のような橋頭堡を築いて包囲を目論んだと考えるのが妥当ではないでしょうか。

しかしこの上杉方の犀川渡河作戦も、結局は小競り合い程度で、武田方に撃退されると、謙信も兵を出すのをすぐに止めます。

武田信玄が犀川渡河をしないどころか一切動かないという意志を謙信は確信したのでしょう。

ここでも戦の天才同士の心の交流が垣間見られます。

結果、第二次川中島の戦いは200日にも及ぶ長期のにらみ合いに入るのでした。

戦は主導権の取り合いです。

先に動くことによって主導権を得ることもありますが、逆に先に動くことで主導権を相手に奪われてしまう「後の先」もあります。

このような状況ではどちらも動くことができません。

結局、今川義元を通じた仲介で両軍撤退となります。

今川義元
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補給路が伸びきってしまった武田信玄が、遠征先での長期滞陣が難しくなって今川義元にお願いしたと言われています。

両軍撤退の提案に対し、謙信が示した撤退の条件が【旭山城の破却】でした。

これだけでも、膠着状態の原因が、旭山城にあったというのがよく分かるでしょう。

一つの城の占領がその後の戦局を大きく左右させるのです。

第二次川中島の戦いは、激しい攻城戦こそないものの、頭脳と頭脳の城取り合戦、そして城の役割は、両雄の戦略を達成させるための駒であることが明確にわかります。

これこそが最前線の城のカタチなのです。

 


兵を一点集中させられるが条件は敵も同じこと

第二次川中島の戦いは、両軍撤退で幕を閉じました。

武田信玄の放った旭山城という挑発。

それに乗らなかった上杉謙信の戦のセンス。

武田信玄が

上杉ハンパねえ……マジ、ハンパねえわ、やべぇよコイツ……

と思ったのは間違いないでしょう。

そして信玄にとって今回は反省点が2つ出てきました。

一つは「補給」。

上杉の戦センスを考えると短期決戦は難しい。

実行したところで確実に勝つ保証はありません。

そうなるとこの川中島に長期滞在できる拠点、城の確保が必要になってきます……うーん、我慢できないから言ってしまおう!

後の「海津城」築城フラグです。

そしてもう一つは、善光寺平においては戦線が犀川越えという一点しかないこと。

これは兵力を一点に集中できるため、兵の運用を容易にしますが、それは敵も同じです。プランBのない、一択しかない戦略などは、古今東西、必ず失敗します。

しかし積極侵攻策が国是のような武田方には、プランBがないからといってその地に踏みとどまることなど許されません。

かといって力攻めを試みても上杉のセンスと戦闘力に、これまた勝つ保証はどこにもありません。

ということで信玄は最初の大戦略に戻ります。

すなわち「謙信の留守を狙え」。

次回、第三次川中島の戦いは、調略戦を仕掛ける武田信玄と、ついにブチ切れる上杉謙信の泥沼の戦闘で、攻城戦多数!

城マニアにとっては垂涎モノの激しい城取り合戦が展開されるのです。


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筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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